14歳から本場ヨーロッパを転戦。女性初のフォーミュラカーレーサー、野田Jujuの急成長を支えた家族の絆
予想を覆してつかみ取ったタイトル
――2023年は、「F1の登竜門」と言われる「ユーロフォーミュラ・オープン」の第4ラウンドで女性ドライバーとして史上初優勝、F2000フォーミュラトロフィーでも女性初の年間チャンピオンに輝きました。自信も積み上げた年だと思いますが、改めて振り返っていただけますか? 野田:ユーロフォーミュラに関しては、2年間ぐらいのスパンで考えていたんです。樹潤の実力云々というより、私たちNODAレーシングのチームの規模や予算などを含めて、ユーロフォーミュラで圧倒的に強い「モトパーク」というチームには対抗できるはずもない体制だったんです。そういう意味では、1年目は彼女がNODAレーシングでユーロ・フォーミュラにチャレンジすることは一つの経験として捉えて、その上でトップチームや上を目指す他の若いトップドライバーたちのなかで揉まれて勉強することが本人の成長につながっていく、という割り切りを持って参戦しました(*)。 その一方で、ベテランドライバーやNODAレーシングのように経験が必要な若手ドライバーが多く参戦するZinoxF2000(旧イタリアF3)というもう一つのシリーズに関しては、シーズンの後半に車に慣れてきた中で優勝争いができるようになればいいなと。その経験を持って、2年目のユーロフォーミュラで優勝争いできるようにチームとしても力をつけようと考えていたんです。もし、それがかなわなかったら、他のチームで優勝争いをできるようにしようと思っていたんですけど……。 (*)その年から導入された最低重量のレギュレーションが撤廃されるなど、度重なるレギュレーション変更に悩まされ、後半戦は参戦を断念した。 ――ユーロフォーミュラではレギュレーションの変更などに苦しみながらも、結果を出すことができたのですね。 野田:はい。ただ、ユーロフォーミュラの開幕戦、ポルトガルで行われたレースは、ライバルたちにまったく歯が立たなくて。うちのNODAレーシングの車が遅くて、スタートからみんなに置いていかれてしまうという、本当に恥ずかしいレースだったんです。 いくらチームの力や予算がないとはいえ、これでは勝負にならないし、ヨーロッパまで学びにきた意味がないので、せめて後方の車とは戦える車で臨ませてやりたいと思いました。そこから体制を見直し、予算もかけて車を作り直したところ、樹潤がそれなりに結果を出し始めたんです。すると、それを見ていた他のチームも、我々の体制を見て「もうちょっと何とかした方がいい」とアドバイスをくれたり、マシンを速くするコツを教えてくれたりして協力してくれるようになって。そうしたらさらに樹潤が速くなって、最強チームの「モトパーク」を相手に戦えるようになりました。ハイレベルなレースの中で揉まれる中で、本人が急成長して、最終的にはもう一つのシリーズで年間優勝できるところまでいったので、実りあるシーズンだったと思います。