『おむすび』“展開が遅い”で離脱するのはもったいない 震災の描写に詰まった人間への敬意
NHK連続テレビ小説『おむすび』第5週「あの日のこと」では、主人公・結(橋本環奈)、姉・歩(仲里依紗)、父・聖人(北村有起哉)と、米田家の人々がそれぞれに傷つき、それぞれに蓋をしてきた「過去の震災の記憶」と向き合うという重要なシークエンスが置かれた。 【写真】完全ギャルモードの結(橋本環奈) 本作が放送中の2025年1月17日で、発生から30年をむかえる阪神・淡路大震災を描くにあたり、制作陣は取材期間に1年を費やし、多くの被災者、関係者、専門家に取材を続けてきたという。こうした綿密な取材の積み重ねが、第5週で描かれた避難所の様子、被災者たちの行動、そのサポートに奔走する人たちの姿などに、切実なリアリティを持たせていた。 震災と、被災者が心に受けた傷を描くことについて、本作の制作統括・宇佐川隆史氏は「第三者が『わかったふり』をしてはいけない」と語った(※)。人の心の内は、他者にはわからない。だから、決して安易に語ったり断じたりしてはならない。複数の本作制作陣に取材をした筆者から見て、「作り手の総意」と思われるこの心構えは、震災についてのみならず、本作の心髄でもあると感じる。『おむすび』という作品は、人の「心の中の出来事」を描こうとしている。 震災が語られる第5週、歩が帰還して結の記憶の蓋が開く第4週の前段である第1~3週まで、結が高校に入学する日からおよそ3カ月間の「日常」がじっくりと描かれた。この作劇について、「展開が遅い」と不満を抱く視聴者や、辛辣に批判する記事もあった。 震災で心に大きな傷を受けて殻に閉じこもった15歳の高校生・結が、大嫌いだったギャルと出会い、少しずつ理解し、受け入れる。そして姉の歩や震災という「心の蓋」の原因と向き合うに至るまでに、序盤3週の丹念な描写は不可欠だったと筆者は考える。ましてやこれは、それぞれに傷を抱えた米田家の人々が9年という時間を要して、やっと震災の話ができるようになったという物語だ。ここに至るまでを早送りで、あるいは雑に描くことは、被災者の思いを軽んじることにならないだろうか。 人の心の内や本音は、他者にはわからない。時にそれは、本人にさえわからないことがある。『おむすび』はこれまで結・歩・聖人の心の深いところに内在する、無意識下の哀しみを丁寧に描いてきた。「平成史とギャルを題材にした青春グラフィティ」というパッケージをめくった下にある、多層的な作劇が『おむすび』の本懐といえる。 「家族に心配をかけたくない」「平穏無事に生きるのが夢」が信条の真面目な女子高生。これが結の「表側」だ。その下層には姉・歩に対する複雑な思いがあり、さらに下の層には震災で受けたトラウマがある。そして、結の「本当にやりたいこと」「こうありたい自分」は、さらに深部に隠れているようだ。5週間かけて、彼女を覆っているものをひとつひとつはがしていきながら、私たち視聴者は「米田結とはどんな人なのか」を知っていった。 台詞は嘘をつく。結も、震災で亡くした親友の真紀(大島美優)の代わりにギャルになることを選んだ歩も、糸島フェスティバルの打ち上げの夜に初めて自らの思いをぶちまけた聖人でさえも、まだ「本音」の一部しか見えていない。「超アゲー」が口癖のハギャレンメンバー・ルーリー(みりちゃむ)の家は機能不全家族で、彼女のもうひとつの顔は、夕食に1人コンビニ飯をつつく孤独な女子高生だ。言葉に出していること、表から見えることが全てではないと、このドラマは繰り返し描いている。 結の「本音」が出たり引っ込んだりするところもリアルだ。「お姉ちゃんなんか大っ嫌い」「ギャルなんか大っ嫌い」と言っていた結が、実は本人も無自覚な心の深いところで「大好き」と叫んでいたのだと、結の記憶の糸をたぐることでわかってきた。糸島フェスティバルでハギャレンのメンバーたちとパラパラを大成功させて、初めて魂を解放することができたけれど、その日からすっかり明るくなって「ギャルライフを楽しみまーす」とはならない。この一筋縄ではいかないところが『おむすび』の面白さだ。震災以降、娘たちと向き合うことができなかった、全ては自分のせいだと泣き叫ぶ聖人を目の当たりにして、またもや本音が引っ込んでしまったのだろう。第5週は、結がハギャレンメンバーたちに「今日でギャルやめます」と言って終わった。 6歳の結(磯村アメリ)は、セーラームーンに憧れる、かわいくてカッコいいものが大好きな女の子だった。「お姉ちゃん」の歩に、髪の毛を「月野うさぎ」みたいに結ってもらうのが何より嬉しかった。おそらくこれが結の本来の姿なのだろう。高校生になった結が「お姉ちゃんもギャルも大嫌い」と言いながら、歩の部屋に入ってひまわりのヘアアクセをつけてみるシーンが胸に迫った。結の頑なさは「好き」の裏返しであり、好きであればあるほどブレーキがかかってしまう。大好きだったセーラームーンも、「お姉ちゃん」と「真紀ちゃん」と過ごすかけがえのない時間も、あの震災が一瞬にして奪い去ったからだ。 米田家のなかでも結・歩・聖人の3人とはまた違う視点で物事を見ている母・愛子(麻生久美子)の存在も効いている。本音を表に出せない3人の家族を、愛子はいつでも信じて見守りながら、「それがあなたの本音なの?」という顔をしている。けれど、決して無理に本音を引き出そうとはしない。本人が表に出すその時をじっと待つ。愛子の距離感が、この物語の作り手の距離感と言ってもいいのかもしれない。他者はおろか本人にもわからない心の領域に対して、距離を保つこと。それは「人間への敬意」とも言えるのではないだろうか。 「表層だけ見ていればその本質はわからない」といえば、このドラマにおけるギャルの存在意義もしかりだ。ギャルを扱うことについて「奇を衒っている」「ウケ狙い」と揶揄する向きもある。そこまで思わないにしても、筆者も制作発表の時点では「攻めてるな」と感じた。しかし、蓋を開けてみればそんな単純な話ではなかった。 全て「現象」というものは、時代から生まれる。ギャルは、「失われた30年」とも呼ばれる平成の終わりなき閉塞感と、それに拮抗するかのように存在した楽観的ムードが生み出した、時代のアイコンといえまいか。歩からハギャレン、そして結へと受け継がれた「ギャルの掟」に象徴されるように、ギャルは「好きなことをしたい」「今を全力で楽しみたい」という欲求に素直で、そうした「哲学」の体現者だ。ギャルマインドとはつまり、今の結にいちばん欠けている「本音で、自分らしく生きる」という精神だ。 「ギャルの掟」は、実はとても普遍的な、すべての人間に通用する「幸福に生きるためのメソッド」ともいえる。結は、ルーリーが警察に補導されたときに「掟その1 仲間が呼んだらすぐ駆けつける」を実践して駆けつけ、警官に「この人は私の友達です」と言った。「掟その3 ダサいことは死んでもするな」を胸に、カツアゲをして天神界隈を荒らすヤンキーギャルたちの前で啖呵を切ってハギャレンの仲間を守った。残るは「掟その2」だ。 糸島フェステイバルに向けたパラパラ特訓の最終仕上げの際に、タマッチ(谷藤海咲)は言った。 「振りは完璧。ただ、ムスビン(結)だけ何か足りんのよね」 結に足りないもの。それは「掟その2 他人の目は気にしない。自分が好きなことは貫け」の精神だ。糸島フェスティバル本番で一度は開きかけた結の心の蓋を、いつかは完全に解き放つ日が来るだろう。結と米田家の「心の復興」は、今やっとスタートラインに立ったところ。『おむすび』は、結と、その周りの人たちが本当の意味で「自分が好きなことは貫け」に至るまでを見届ける物語なのかもしれない。 参照 ※ https://www.lmaga.jp/news/2024/10/852449
佐野華英