風はなぜ変わったか?衆院選結果に見えるネット時代「排除」と「集団志向」
孤独な群衆
ネット社会における民意の参加者「個室の大衆」は、所属集団の利益に敏感であり、またそれ以前に、自らの所属性の根拠に鋭敏である。つまり「集団志向」だ。 そこで筆者は、デビッド・リースマンの『孤独な群衆』を思い起こす。1950年に発表された社会学の名著で、学生時代に読んで感銘を受けた。 ある社会が近代化する過程において、人口が、多産多死による安定から、多産小死による急増、そして小産小死による安定へと変化するのに応じて(実際にはもう少し微妙な表現)、人々の「社会的性格」が、宗教や道徳など伝統的価値観に従う「伝統志向」、個人の内面的な思想信条に従う「内部志向」、周囲の人々に追随する「他人志向」と、変化するという。 テレビが普及する以前の著書であったが、これには、炉端話の時代、印刷物の時代、マス・メディアの時代と、メディアの変化が対応している。 伝統志向から内部志向への変化は、マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にも近い考え方であるが、他人志向という見方は、それ以後に展開されたテレビ社会にも、よく当てはまるように思えた。 さてネット社会はどうであろう。 前述の「集団志向」は、リースマンのいう他人志向の延長とは少し違うような気がする。所属集団に敏感という意味で、むしろ伝統志向に回帰するとも思えるが、かつてのように固定的なものではなく、可変的で選択的な集団性なのだ。 インターネット、SNSという新しいコミュニケーション・ツールを手にした人間は、伝統志向、内部志向、他人志向の過程を経て、これまでとは違った「新しい帰属性」「選択的集団性」を模索しているのではないか。
メディアと政治と社会性格
これを、前回のメディアと政治の関係の歴史に加えて整理してみよう。 1期・無文字政治:文字のない社会における原始的シャーマニズムの政治。社会的性格は、自然の恵みと脅威に支配される「自然志向」である。 2期・文字政治:文字によって体系化された法律と宗教(思想)による政治。社会的性格は、その社会の宗教道徳に従う「伝統志向」である。 3期・活字政治:活字ジャーナリズムによる「事実と論理」による、知識階級民主主義。社会的性格は、個人の内面的な思想心情に従う「内部志向」である。 4期・テレビ政治:テレビによって「人間」を見る、劇場的な、茶の間の大衆民主主義。社会的性格は、周囲(テレビ出演者も含め)の人々に追随する「他人志向」である。 5期・ネット政治:インターネット特にSNSによる「感情」がぶつかり合う、ゲーム的な、個室の大衆民主主義。社会的性格は、選択的集団性を模索する「集団志向」である。 総じて世界は、個人と普遍性の時代から、集団と固有性の時代へと移行しているような気がする。