風はなぜ変わったか?衆院選結果に見えるネット時代「排除」と「集団志向」
「家社会」の精神的排除
これに加えて日本社会には、特有の「家社会的排除」の問題が潜在する。 学校ではイジメ、企業では過労死、鬱病は常態化し、自殺率は高い。こうした問題は、日本社会の深いところで何らかの精神的排除がはたらいていることを示すのではないか。 元来日本は、情緒的同一性に支えられた「家社会」である(拙著『「家」と「やど」 ── 建築からの文化論』朝日新聞社刊参照)。その成員は簡単に排除されるべきものではない。しかしそれはタテマエであって、ホンネでは、異質なものを、あるいは富や力や才を有する者に対する嫉妬も絡んで、精神的に排除しようとする力がはたらく。 今回、自己の所属集団の動向に敏感な「個室の大衆」は、その「排除」に反応したのだ。 希望の党に合流しようとした民進党候補者に対する「排除」は、憲法改正と、安保法案への賛否という形で条件をつけたのであり、論理的には野合という批判に応じた形である。 だが蓋を開けてみれば、大物議員はすべて排除で、日本新党の経験から、小池知事はその後の権力闘争を予備的に回避した感がある。その意味では、彼女は論理的であろうとし、先を読もうとしていたのだが、「排除」に対する日本人の鋭敏な情緒性と、ネット時代の「個室の民意」がこれほど早く反応することを理解していなかったのではないか。ニュース・キャスターであった彼女は、まさにテレビ時代の「茶の間の民意」の申し子である。
統合と排除の政治ゲーム
思い起こせば、これほどの小池ブームが起きたのも、都知事選に出馬した際、自民党から排除されたからであった。 大きな組織を敵にまわし、一人で都議会のドンに立ち向かった姿は、百年戦争でフランスを勝利に導いたジャンヌ・ダルクのようなイメージであった(のちに異端とされ火刑に処される)が、今回の発言以来、政敵を次々と排除して権力を掌握した清朝末期の西太后のようなイメージに一転したのだ。 また安倍政権の危機も、お友達を優遇しそれ以外を排除するということから始まった。とりわけメモの存在と前川元文科相事務次官の発言を排除する行為に対して、個室の大衆は、権力の傲慢を察知したのである。 小池知事による民進党員の排除に反応した個室の大衆は、一転、対抗して立ち上げた立憲民主党の枝野代表支持に向かった。SNSのフォロワー数が急増し、枝野旋風が吹く。 政策的には、左寄りで共産党にも近く、現在の日本でそれほど大きな支持を得るとも思えないが、穏健なリベラル(本来自由主義だが、現在の日本ではやや左に寄った意味)を巻き込んだのは、政策への同意というより、安倍一強による排除にも希望の党の排除にも反発する情緒的共感によるのだろう。日本人は判官贔屓だ。 権力に批判的な勢力の結集を切々と呼びかける姿は、福島第一原子力発電所の事故のときに官邸からの発言を続け、辛うじて政治の存在感を保った姿を思い起こさせた。枝野には小池とは異なる、SNS時代の吸引力がある。 そう考えてみれば、今回の選挙は、あたかも統合と排除の政治ゲームであったのだが、そこに世界の政治情勢と日本社会の特徴とネット時代の傾向が重なって、きわめて流動的な状況が生まれたのである。