最後の直線まで、いかに‟勝ちたい”という気持ちを抑えられるかー。調教師・福永祐一の教え
無意識に欲をコントロールできるようになるには
笠松から中央競馬に移籍し、多大な功績を残したジョッキーである安藤勝己さんは、かつて後輩たちに「勝とうと思って乗っているからダメなんだよ」と常々話していた。なぜダメなのかというと、勝ちたいという人間の欲が馬に伝わってしまうからだという。すると、馬はリラックスして走れず、本来の能力を発揮できないということだと思うが、その境地までたどり着けるジョッキーはそうはいないだろう。 自分も晩年は安藤さんの境地を目指し、近づけたような気がした瞬間もあったが、たどり着けたとは言いきれない。後から人に聞いた話だが、そんな安藤さんも引退間際、「最後まで完全な“無”にはなれなかった」と漏らしていたとか。それを聞いて、ちょっとホッとしたのを覚えている。 安藤さんの話は別として、欲とは本来、ジョッキーが持っていて然るべきもの。欲がまったくない状態では、負けても悔しくないわけで、敗因を探ることなく「まぁ仕方がないか」で終わってしまう。それでは次につながらない。 ありすぎてもダメ、なさすぎてもダメ。だからこそ、コントロールが必要なわけだが、こればかりは経験を積みながら自分のものにしていくしかない。自分も負けて引き上げてきた後、何度も「欲をかきすぎたな……」と反省することがあった。まずは反省し、次は同じことを繰り返さないように意識をする。それを繰り返すうちに、いつしか無意識に欲をコントロールできるようになっていった気がする。
他者の欲をコントロールするには……
そもそも競馬界は、馬主、調教師、ジョッキー、そして馬券を買ったファンたちの欲がうごめいている世界だ。馬主や調教師にも「勝ちたい」「勝ってほしい」という欲があり、ジョッキーは自分の欲と向き合いながら、ときにそういった他者からの欲ともうまくつき合わなければならない場面がある。 では、他者の欲をコントロールするには、どうしたらいいのか。それはただ一つ、きちんと言葉で説明することに尽きる。 たとえば、まだキャリアの浅い2歳馬や3歳馬だったとしたら、次のような言葉で伝える。 「当然、このレースを勝ちたい気持ちがあると思いますが、この馬はまだこういうことができないので、それを経験させる必要があります。そのうえで勝てれば一番ですが、現段階ではあくまで勝利は副産物。重要なのは、ここでこういう経験をさせるということでしょう。だから、こういうレースをしますね」 ここまで丁寧に説明すれば、馬主さんや調教師も「わかった、任せる」となり、“ここを勝ちたい!”という他者からの欲は軽減される。ただ、これを可能にするには、相手との普段からのコミュニケーションが必要であり、なおかつ説明をするジョッキーに説得力がなければ成立しない。 ここが難しいところで、若手が突然こんなことを言い出したって、「お前、何を言ってんだよ。いいから勝てるように乗ってこい!」と叱責されて終わってしまう。説得力を持つためには実績を積み重ねるしかないが、馬の能力を正しく伸ばすためにも、そういうジョッキーが一人でも増えてくれたらいいなと思う。 馬にとって正しい選択を迫られるシーンは多々あるが、たとえばダービーに出走るためにはこのレースを勝たないといけない、という馬がいたとする。でも、この前に走ったばかりだから、ちょっと疲れている。 しかし、ここを勝たなければダービーに出られないから使う。そして負ける。ダメージが大きく、その後はしばらくレースに使えなくなる──よくある話だが、これは完全に人間のエゴであり、欲が判断力を鈍らせた結果だ。