哲学者が説く「周りにどう思われるかを気にする人生」の不毛な末路
日々「他人の期待に応えなければならない」というプレッシャーを感じている人は少なくないだろう。しかし、哲学者である岸見一郎氏は「期待に応えるための仕事をするな」と説く。自分の人生を生きるための考え方とは? 【図】不安の度合いを3つに分類すると...? ※本稿は、岸見一郎著『つながらない覚悟』(PHP新書)を一部抜粋・編集したものです。
期待に応えるために仕事をしない
若い人が職場で初めから力を発揮できることは少ない。すぐに成果を出せなければ職場から追い立てられるのなら、じっくり時間をかけて創造的な仕事をすることは難しい。 大学の教師も、毎年何本も論文を書き、学会で発表しなければならない。講義はもとより、会議を始め研究以外の仕事も多々あるので、じっくり研究に打ち込むことは難しい。 私が学生の時、30年間、一本の論文も書いていないという教授がいると聞いて驚いたことがある。その話を今も覚えているのは、そのような人は他にはいなかったからだが、業績がなくてもすぐに大学を追われることがなければ、じっくりと研究に打ち込むことができるだろうとその時思ったことを覚えている。 そのようなことを許せば、仕事をしなくなる人が出てくるのではないかと会社や大学は恐れるのだろう。しかし、待つしかない。待つことには勇気がいる。成果を出せる保証はないからだ。 しかし、すぐに顕著な結果を出せなければ仕事を失うという状況では、研究者が論文を剽窃するというようなことが起こる。これは学生が試験でカンニングをするのと同じである。 このような人たちは結果さえ出せばいい、出さなければならないと考えて不正行為をするのだが、そうすることで研究者として認められたとしても、それ以降も優れた結果を出せないということが起きる。学生であれば、大学に入学できたとしても、勉強についていけなくなってしまう。企業でも同じことが起きる。 しかし、不正行為をするのは結果を出せないからだけではない。結果を出せないのならさらに研究するしかないが、剽窃してまでも成果を出そうとするのは、職を失う恐れがあるということにくわえて、人からよく思われたいからである。優秀な子どもだという親の属性化に応えようとして生きてきた人は、学業を終えて仕事についてからも優秀であると認められたいのである。 人の期待に応えなければならないと思う人は自分にしか関心がない。自分の才能を人のために使おうとは思っていない。成果はすぐに出せるわけではないので努力が必要である。自分がどう思われるかしか関心がない人は、最終的には力を発揮できないで終わるだろう。