農的な暮らし(3完)自分の手で収穫した米を食べる「一汁三菜」の幸せ
稲刈りそのものは、根本の方を鎌でザクザクとやっていくだけなので、そう難しいものではない。これを藁でX字状の束に結んで稲架(はさ=地方によって稲木など呼び方はさまざま)と呼ばれる木材で組んだ物干し台のようなものに掛けて天日干しする。この作業を稲架掛け(はさがけ)と言うのだが、これが初心者にはちょっと難しかった。数本の藁だけでほつれないように束にするには独特のコツがいるし、前後左右のバランスや密集度を保ってしっかりと稲架に掛けるのには、経験とカンが必要だ。
こうして稲架掛けされた稲は、その後3週間ほど天日にさらされた。収穫したての米は20%ほどの水分を含んでいるが、これにより約15%と保存に適した乾燥具合になるのだ。現代の稲作ではコンバインで収穫と同時に脱穀し、一気に機械乾燥するのが一般的だが、時間をかけて天日干しされた昔ながらのお米の方が、おいしいという意見が多いようだ(理由は諸説ある)。しかし、手間がかかる、3週間の間野外で風雨にさらされるというリスクもある。昨秋、ノラノコの稲架は約2週間後に強風で倒れ、お米の一部が地面に散らばって全体の2割ほどがダメになってしまった。
「体験」という味付け
その中から2合ずつばかり、玄米と白米をいただいたというわけなのだが、玄米は炊飯器で、白米は『峠の釜飯』(群馬県・横川駅の駅弁。鶏肉や山菜で彩られた釜飯が益子焼の容器に入っている)の釜で炊いた。標高1380メートルの我が家では、どうも沸騰したお湯の温度が100度よりも微妙に低いようで、いつもお米がおいしく炊けない(先の和食の達人によれば、100度でグラグラと沸騰した状態を最低1分間保たなければ、おいしく炊けないそうだ)。でも、ノラノコの「朝日」の玄米はいつも買ってくるものよりも柔らかく炊けた。品種の違いなのかたまたまなのかは分からない。ともかく、癖がなくて食べやすかった。釜で炊いた白米もふっくらとして粘りは控え目という、いつもとは違う好みの味と食感に仕上がった。