9歳年下の甥に嫁いで皇子出産のプレッシャーに苦しんだ威子 後一条天皇の“唯一の女性”になった生涯
NHK大河ドラマ『光る君へ』第44回「望月の夜」では、三条天皇(演:木村達成)の譲位をうけて、後一条天皇(演:橋本偉成)が即位。藤原道長(演:柄本佑)は娘の威子(演:佐月絵美)を後一条天皇に入内させることを決め、威子の中宮冊立をもって三后を道長の娘が独占することになった。今回は「9歳差の甥とおばの夫婦」となった後一条天皇と威子のその後の物語をお届けする。 ■「皇子を産め」という周囲のプレッシャーと後一条天皇の愛 藤原道長と源倫子の間に威子(いし/たけこ)が誕生したのは、長保元年(1000)冬のことだった。同母姉で道長の長女である彰子が一条天皇のもとに入内して間もなくのことである。 長和元年(1012)に尚侍に任官されると、同年に裳着を済ませ、従三位に昇叙された。その翌年には従二位に昇叙されている。さらに、道長の孫で彰子と一条天皇の間に生まれた敦成親王が後一条天皇として即位すると、寛仁元年(1017)には御匣殿別当も兼任するようになった。威子が後一条天皇に入内するのは、既定路線だったと考えられる。 後一条天皇は長和5年(1016)に数え8歳で即位し、寛仁2年(1018)に元服。この元服を待っていた道長は、すぐさま威子を入内させた。威子は同年4月に女御宣下を受けると、10月に中宮に冊立。この時威子は20歳、後一条天皇は11歳だった。威子にとって後一条天皇は、自分の同母姉・彰子が産んだ甥でもあった。 『栄花物語』では、人々も「2人が並んでみたらどのように見えるのか」と噂していたらしいが、実際は威子は小柄で美しく、後一条天皇は大人びた様子であったためにお似合いの夫婦だ、ということになったとある。さらに『栄花物語』は2人が共に寝所に入ることを「入らせたまひて後のことは知りがたし」と記す。 威子にとっては、人々から自分たちがどのように見られているのか、9歳も年上の妻である自分のことはどのように思われているのかと、恥ずかしく思っていたという。 威子の立后によって、太皇太后に彰子、皇太后に妍子、中宮に威子と、三后すべての地位を道長の娘が独占するという前代未聞の状況になり、道長の権勢はここに極まった。 朝廷における権力をほしいままにした道長に遠慮してか、他の家から入内する姫君はいなかった。となれば、威子に求められるのは、何よりも後一条天皇の皇子を産むことである。威子が入内した3年後には同母妹の嬉子が東宮・敦良親王に入内し、万寿2年(1025)には親仁親王(後の後冷泉天皇)を出産。後一条天皇の“唯一の后”として、威子が感じたプレッシャーがどれほどのものだったか、想像に難くない。 威子が待望の第一子を産んだのは、万寿3年(1027)のことだった。この時威子は28歳、後一条天皇は19歳である。誕生したのは章子内親王、つまり女子だった。周囲が皇子でなかったことを残念がっているのを見た後一条天皇は、「安産だっただけでも十分すぎるではないか。女子だったと残念がるのも愚かなことである。これまでにも女帝が立ったことはあっただろう」と、周りの人間をたしなめている。 ちなみに女帝云々については、既に東宮に弟・敦良親王がいたこともあって、本気で娘を天皇として即位させることを考えていたというよりは命がけで出産した妻が思い悩まないようにという思いやりからの発言だったと考えられる。 次に威子が出産したのは、長元2年(1029)で、31歳になっていた。誕生したのは馨子内親王で、またしても女子だった。藤原実資は『小右記』に「宮人気色太以冷淡」と書き残しており、威子が皇子を産まなかったことに対して宮中の人々が冷淡だったことがわかる。 入内して11年、娘2人を夫・後一条天皇とともに慈しんで育ててはいたものの、威子にとっては皇子を産めないということに苦悩する日々だっただろう。そんなところに、威子の兄たちが自分の娘や養女を入内させようとしている、という噂が流れた。『栄花物語』によると、威子は「若く、これから咲く花のような女性たちと争うことはしません(自分は身を引きます)」と言ったという。後一条天皇は妻の思いを知って「私はあなたをこれまでよりも、大切に思うつもりですよ」と、ここでも威子に寄り添った。 結果、後一条天皇は生涯威子以外の女性を妻にすることはなく、威子が皇子を産むこともなかった。威子にとっては気乗りしない結婚であったものの、常に彼女を周囲の冷淡な態度から庇い、愛情を向け続けた夫・後一条天皇と共に歩んだ生涯は、決して不幸ばかりではなかったのではないかと思われる。
歴史人編集部