正露丸と百草丸、ふたつの丸薬とふたつの氷瀑のこと|Study to be quiet #16
喉が渇きすぎてツララを食べながら登ったこと
私は無言でビレイ点から離れた。たぶんいままでもこれからも、私のアイスクライミングのなかでもっとも長く垂直の氷が続いたのがこのピッチだったように思う。百草丸周辺の岩は、一連の米子不動の険崖のなかでも上部が顕著に張り出しており、もっとも平均傾斜が強い。さらにこのシーズンは氷が発達しすぎて弱点となる凹角を全て埋めてしまったらしい。巨大なまな板のようなフラットな氷を、凄まじい高度感のなかで延々とステミングとレストを繰り返して登った。限りある持久力をできる限り省エネで使用しなければならない。 ところがそこに思わぬ来客が現れた。当時、空撮に凝っていた仲間が、なんと林道から私のすぐ横までドローンを飛ばしてきたのだった。巨大な正露丸を横目に、カラカラとしたドローンの乾いたプロペラ音を聞きながら、私はまな板の最上部で猛烈なパンプに耐えていた。この時の動画が残っているが、私は情けないほどに、アックスを離した片腕を振っているばかりで一向に登っていかない。 片手をレストするだけで片手はみるみるパンプしてゆく。眼前のつららを口に含み喉の渇きを癒す。スクリューを埋めて少しは安堵するが、この場所で耐えていることがなんの進展にもならぬことを思い知り、再び意を決して上へ上へと進んでいく。そして足元はるかに小さくなったスクリューに再び怯えることを繰り返した。私にとっては記憶に残る渾身のピッチであった。スクリューを打ち尽くしてようやく垂直を抜け、最後のスラブをノープロテクションで登り切り、腕ほどの立木にしがみつく。喉がカラカラで再び付近の雪を食べた。60mロープはほとんど出きっているらしい。声は到底届かないので強引に残りのロープを引き上げる。やがてKが鼻歌混じりでフォローしてきた。 K「いやーぶっ立ってますなあ」。 私「いやーぶっ立ってましたよ」。 三回の懸垂で無事に下降、取付きに立って見上げると、終了点との奥行きの差は2~3mくらいしかないんじゃないかと思われた。氷が氷でいられる臨界点に私たちは遭遇していたとしか思えない。実態のない対象を、実態のない空間をとおして、私たちは本当に登ったのだろうかが疑わしい。しかしこの両腕のパンプには実態があったのは疑えない。 私「これってまた繋がるのかねえ」。 K「おそらく今世紀中は無理でしょうね」。 私「なんなのかねえ。冷え込みなのか水量なのか」。 K「秋に降った雨と今年の寒暖差が絶妙だったんでしょうね」。 私「このタイミングでここにいられて良かったねえ」。 その後私は何回となく百草丸の下を通ったが、Kの言葉どおり、この氷柱が地面まで繋がったシーズンは私のみる限りではなかった。最上段のまな板のような氷瀑を見るたびに、あのときの前腕の張りが思い出され、今年もあの場所に戻らなければという感覚を抱く。しかしアイスクライミングの装備は年々革新が続けられ、いまではあのころほどのパンプを感じることはなくなってしまった。そして近年の冬の短さを思えば、あの年ほどの結氷はもはや永遠に望めないように思う。登るべき氷は溶けたが、なおも道具は進化する。滑稽の絵柄はすぐそこまできている。
PEAKS編集部