「佐々木朗希」メジャー移籍に恩師「吉井監督」の“本音”は? 「大谷翔平=栗山監督」との“決定的な違い”とは
高級外車で唐揚げ屋
ロッテは手塩にかけて佐々木を育成した。 「プロ1年目の佐々木は2軍でしたが、一軍に帯同していました。佐々木に体に負担のかからない投球フォームを勉強させるため、当時投手コーチだった吉井監督が判断しました。一軍昇格後も、故障しないよう、登板回数、球数などに制限をかけ、本人の意見も最大限聞き入れていました」(ロッテ担当記者)。 球場には運転手付きの高級外車で“通勤”していた。今夏には『FRIDAY』に、唐揚げ屋の近くにその高級外車を付け、商品を受け取る姿を撮られたこともあった。 チーム内では特別待遇と思う選手は多かった。そうした批判があっても「才能は野茂英雄以上」と防波堤となってきたのが吉井監督だった。 昨季7月、佐々木は左脇腹を痛めた。吉井監督を筆頭に首脳陣は復帰後のクライマックスシリーズ第4戦(対オリックス)で佐々木を先発させるつもりでいた。 しかし、 「負傷して2か月しか経っていないと回避。その試合でチームは負け、日本シリーズに出ることは叶わなかった」(夕刊紙記者)。 そのオフ、佐々木は球団にポスティング移籍を申し出た。すると、吉井監督はイベントで、「自分だったら球団に対してもう少し恩返ししてからでないとダメなのかなとかって思ったりする」と述べた。佐々木を牽制したかにも思えるこの発言は、先に述べたように、慎重な吉井監督のコメントだけに、多いに波紋を呼んだ。
「エンゼルスに決めました」
一方の大谷はどうか。大谷の日本ハム入団からメジャー移籍までの間は、栗山監督が私生活に制限を加えた。寮から外出するときは必ず誰と行くのか事前に報告させていた。結果、大谷は野球に専念できた。 2017年末、「週刊新潮」のインタビューに栗山はこう語っている。 「今シーズン後に移籍することは、事実上2016年から決まっていました。もともと翔平は、『二刀流はチームが勝つため』と言ってきました。16年、翔平の活躍もあってチームは日本一に。以降は、翔平が行きたいと思った時が“その時”と思ってきたワケです」 「ですから、日本一になった後、全部で6回、本人の意思を確認してきました」 本人だけではなく、球団も監督も納得ずくの移籍であった。移籍チームが決まった時には、 「翔平は、現地からすぐに報告をくれましたよ。『エンゼルスに決めました!』って」 二人の絆は今も強く、それが昨年のWBC招聘、優勝に繋がった。