なぜダメだった…。日本の「消えた天才」(10)中村俊輔が最高の相棒と認めた! ワールドユースで輝いた天才MF
若くして評価され、「天才」と称される選手たちがいる。しかし彼らがそのままスター選手として活躍し続ける保証はない。怪我やプレッシャーに苦しみ、コンディションを落としていく者もいる。今回は大きな期待を背負いながらも才能を発揮しきれなかった日本人選手を紹介する。※成績は『transfermarkt』を参照。
MF:大野敏隆 生年月日:1978年5月12日 主な在籍クラブ:柏レイソル、東京ヴェルディ 大野敏隆は、柏レイソルでJ1リーグ170試合に出場し、プロとして一定の成績を収めたが、周囲が期待したレベルには達しなかった。 大野は前橋育英高等学校サッカー部での活躍が注目を集め、1997年に柏でプロキャリアを始めた。同年6月から7月にかけて開催された1997FIFAワールドユース選手権(現U-20ワールドカップ)に出場。中村俊輔とともに攻撃的MFの主力を務め、第2戦のU-20コスタリカ代表戦では2得点を決める活躍を見せた。 特に配球能力の高さは圧倒的で、得意のダイレクトパスで攻撃を活性化し、この世代屈指の才能と呼び声が高かった。 その後着実に成長を続けた大野は、プロ3年目に柏の背番号10を託され、チームの司令塔に君臨。北嶋秀朗とともにチームの攻撃をけん引し、1999年にはヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)決勝の鹿島アントラーズ戦で先制点を決め、クラブの主要タイトル初制覇に貢献した。 大野は2021シーズンのJ1で9得点を挙げたが、その後目立った活躍はできなくなってしまう。2003シーズンは外国人助っ人にポジションを奪われる形で出場機会が限られ、同年6月に京都パープルサンガ(現京都サンガF.C.)へ、翌2004シーズンは名古屋グランパスエイト(現名古屋グランパス)に、それぞれ期限付き移籍で加入した。 しかし、柏の不振が続き、2004年7月に指揮官に就任した早野宏史監督に呼び戻される形でシーズン途中に復帰。柏は個人技主体のチームから脱却し、最終的にJ1・J2入れ替え戦でJ1残留を果たした。 柏は2005シーズンにJ2降格となり、大野は2006年、ラモス瑠偉監督に招かれて東京ヴェルディに加入したが、その後はケガに悩まされるキャリアに。椎間板ヘルニアで2度の手術を行うなど、コンディションが上がらず、2008シーズンで現役生活に終止符を打った。 2023年、中村俊輔は自身の引退試合の後の会見で、「横並びで一緒にやってよかったのは、(小野)伸二とワールドユースで一緒にプレーした大野と大ちゃん(奥大介)だった」(横浜FC公式サイトから引用)と語っていた。 日本サッカー界のレジェンドも認めた才能だっただけに、もっと大成しても不思議ではなかった。
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