感染症の文明史 :【第2部】インフルの脅威 3章 鳥インフルウイルス:(3)驚異的な勢いで感染範囲を広げる「H5系」ウイルス
ついにヒトに感染
「H5N1」からはさまざま変異株が生まれた。2004年以降、米国疾病対策予防センター(CDC)に報告されたものだけで、「H5N2」「H5N3」「H5N5」「H5N6」「H5N8」など34種もある。いずれも「遺伝子再集合」によって出現したものだ。これらをまとめて「H5系」と呼ぶ。 鳥インフルウイルスの感染はほぼ鳥に限られるが、この中で、「H5N1」「H5N6」「H5N8」の3つがヒトへの感染例がある。「H5N1」のヒト感染は、2003年以降、中東、アフリカ、アジア、欧州など19カ国で発生し、456人の死亡者を含む864例が確認されている。「H5N6」は2014年以降、主に中国などで74人、「H5N8」は2021年に初めてロシアで確認され、7例のヒトの感染が報告されている。 ヒトへの感染は、関係者が最も恐れていた事態だ。最初の感染は、1997 年に香港でニワトリの集団感染が発生したときだった。18人が感染し、6人が死亡し、ヒトへの「H5N1」感染が報告された。2003年1月1日から2024年1月4日までに、ヒト感染症例が合計248例報告されている。このうち139例は、致死率が56%という高率だった。他の「H5系」を含めると、873人の感染者数と460人の死者数が報告されている。 ヒトへの感染は国際社会に衝撃を与えた。鳥インフルウイルスが変異して「鳥からヒトへ」だけでなく「ヒトからヒトへ」と感染が広がる事態になれば、「感染爆発」の危険性が高まる。もしパンデミックが起きた場合には、5000万人から1億5000万人の死者が出る可能性があると、WHOが2005年9月に警告を発した。こうした事態の恐ろしさは、新型コロナのパンデミックで実証ずみだ。中国奥地でコウモリからヒトに感染した段階では散発的な感染だったのが、大都市に侵入して「ヒト感染」になったことから最悪の事態を引き起こした。 2005年10月には、30カ国の政府高官による対策会議がカナダのオタワで開催された。さらに2006年7月にはロシアのサンクトペテルブルクで開催されたG8(主要国首脳会議)で、この感染対策が最優先議題になるなど、その後も国際社会では危機感が高まっている。 幸いにもWHOの警告は当たらなかったが、現在も「H5N1」の脅威は続いている。このウイルスは着々と宿主を広げているからだ。2023年には南北アメリカの14カ国で新たな「H5N1」の動物感染が報告されていることからもその感染拡大の様子が分かる。2023 年 5月にパリで開催された WHOの動物版であるWOAH総会でも、「高病原性鳥インフルの世界的制御における戦略的課題」が重要議題となった。 WOAH科学部長のグレゴリオ・トーレスはこう心配する。「野鳥や哺乳類の鳥インフル感染が、驚くべき勢いで感染範囲を拡大している。陸と海に生息する哺乳類の少なくとも26種にこのインフル感染が広がっていて、まだ気づかない新たな変異がウイルスに起きているのではないか」 (文中敬称略)
【Profile】
石 弘之 環境史・感染症史研究者。朝日新聞社・編集委員を経て、国連環境計画上級顧問、東京大学・北海道大学大学院教授、北京大学大学院招聘教授、ザンビア特命全権大使などを歴任。国連ボーマ賞、国連グローバル500賞、毎日出版文化賞などを受賞。主な著書に『名作の中の地球環境史』(岩波書店、2011年)、『環境再興史』(KADOKAWA、2019年)、『噴火と寒冷化の災害史』(同、2022年)など。『感染症の世界史』(同、2018年)はベストセラーになった。