俳優・中村優子、徹底した役作り。初主演映画では素性を隠してストリッパーの巡業に同行「役を生きたいと思っていた」
――すごくお上手ですね。 「ありがとうございます。30数年ぶりに母と勝負して、リベンジを果たしました。本当に刀を交えるつもりで描いていました。絶対に負けないって(笑)。 娘は今12歳ですけど、彼女が小さいときに自分が仕事をするにあたって、できる限り淋しい思いはさせないと決めていたんですね。夫と力を合わせて、国内外問わず、ロケ先には必ず連れて行きました。母にも、友人たちにも、たくさん助けてもらいましたね。 泊まりがけのロケじゃなくても、寝ている間に撮影に行くこともあるじゃないですか。そういうときには、起きてママがいないと淋しいかなと思って、その時々に娘が好きなキャラクターのイラスト入りのお手紙を書いて出かけていました。朝出かける前に5分くらいでパパッと書くので慌ただしいんですよね。でも、その時間も、楽しくて」
キャンプに行くために塾へ
中村さんは高校卒業後、東京外語大学イタリア語学科に進学。小学校時代に通いはじめた塾の成果が大きかったという。 「小学校3年生のときに2歳上の兄が塾に通っていて。ちょうど塾が流行り出した頃だったんですね。その塾のみんなでキャンプに行くという話を聞いて、『塾って、キャンプに行けるの?すごい!』って(笑)。キャンプに行けるんだったら塾に入りたいと、邪(よこしま)な動機で母に申し出ました。 そこの塾は小さいプレハブ小屋みたいなところだったんですけど、先生の教え方がすばらしかった。勉強がすごくよくわかっておもしろくて。そこで成績がポンと上がって、学ぶ楽しさ、勉強が楽しいってこういうことなんだって。あれは大きかったなと思っています。遊ぶように学べました」 ――東京外語大学のイタリア語学科を選んだのは? 「最初から英語にも興味はありましたが、イタリア語を選んだきっかけは音に惹かれたことくらいでしょうか。入学してみたら、イタリア語オタクみたいな教授もいらして、印象深く記憶に残っています。 情熱が漏れているみたいな先生を観察するのがおもしろかったですね。でも、私はあまりいい生徒じゃなくて、大学時代は海外旅行と映画館に通っていた思い出が多いですね」 ――まだ名画座があった頃ですね。 「はい。ギンレイホールとか銀座テアトル西友とか…お気に入りの映画館がいっぱいありましたね。『ベティ・ブルー/愛と激情の日々』(ジャン=ジャック・ベネックス監督)とか『M★A★S★H』(ロバート・アルトマン監督)も印象に残っています。 学生のときは、とにかく吸収したい、知りたい、見たいという思いが強くて。あとはやはり、当時から映画館が大好きだったので、その体験が基になっているというか、大きなきっかけのひとつになっているのが、テアトル新宿です。 学生のときに『市川雷蔵映画祭』をやっていて、市川雷蔵さんの映画にもハマりましたね。頻繁に通いましたが、常にご年配の方々で満席、活気がすごかったです。 日本人は結構静かに見るじゃないですか。でも、『市川雷蔵映画祭』のときは違うんです。皆さん声をあげて笑うし、エンドロールでは満場の拍手。こんなに楽しく映画って見れるんだな、と。あの体験はすごく忘れがたいですね」 ――その頃には、演じる側になりたいという思いはありました? 「むしろ受験前から心の中では決めていたんですけど、すぐに事務所、プロダクションに入らなきゃという風には思わなかったんです。そのまま大学に通って、普通の生活を送ることが自分のやりたいことに繋がっていくだろうと思って。大学に行くことがあまり回り道だとは思わなかったですね」 中村さんは、大学時代にオーディションを受けてアート系の自主映画に出演。初めての映画の現場を経験したことで、より映画に近い居場所を求め現在の事務所に入ることになったという。