牛丼市場は“御三家”がシェア80%以上。メニュー多角化を進める吉野家の「狙い」とは
米国産牛肉の輸入停止で経営危機に
2004年に発生したBSE問題の前は、日本はアメリカにとって最も牛肉を買ってくれる上得意様であった。そのため、米国パッカーは日本国民の嗜好に合わせた日本仕様で、穀物肥育の牛を輸出してくれていた。しかし、2003年12月24日にアメリカでBSEの疑いのある牛が発見され、日本は即座にアメリカ産牛肉の輸入を停止した。 牛丼チェーンでは、牛肉食材のほとんどを米国産牛肉に依存していたため、在庫がなくなったら牛丼が提供できなくなる。関係者は大慌てだったが、どうすることもできず、ただ在庫がなくなる日を沈思黙考する日々だった。結局、吉野家は、2004年2月11日を最後に牛丼の販売を停止、他チェーンも同様に販売を停止した。 吉野家はその後に米国産牛肉の輸入が再開されるまで、メニューから看板メニューの牛丼を復活させなかった。しかし、松屋はいち早く豚丼の販売にシフトし、牛丼(牛めし)も中国産牛肉に切り替え販売した。すき家は、豪州産牛肉を使用して、半年後に牛丼を再復活させた。 牛丼御三家と言われながら、牛丼への熱い思いは、歴史の長い吉野家がやはり一番強かったようだ。
失敗から学んだものは大きかった
輸入停止になり、牛丼業界は大混乱となった。お客さんに販売する牛肉の確保に奔走したものの、米国産牛以外の代替牛の調達が困難になっていたからだ。輸入シェア40%程度あった豪州産を使用する選択肢もあったが、ハンバーガー店のパテ用に使用する牧草飼育の牛がメインだったため、牛丼には適さず、使用を断念した経緯もある。 吉野家の牛丼は穀物肥育の米国産牛ショートプレート(ばら肉)にこだわり、それでないと吉野家の味にできないとの結論から牛丼を販売しなかった。そして、牛丼の復活は米国産牛肉の輸入再開まで待つという方針を決め、新メニューの開発の取り組んだのである。 しかし、新メニューの開発は困難で、他のメニューを開発・販売したが、どれも不評で客離れが進み、経営が弱体化していった。牛丼にこだわり過ぎて、米国産牛の輸入再開の目処を見誤り、対応が後手後手になったことは否めない。単一事業でコア商品の食材が入手困難になれば、店を閉めざるを得ないという脆さが露呈してしまった。 頑なに米国産牛肉にこだわり、在庫がなくなれば販売停止にした吉野家。牛丼への情熱とプライドを捨てきれず、経営危機に陥り、店の継続に苦労した。すき家や松屋が仕入れ先を柔軟に変更するなどしてきたのに対し、吉野家は米国産牛へのこだわりを捨てきれず、米国産の集中仕入れから変更しなかった差が出てしまったのだ。