【陸上】1964年東京五輪3000m障害代表・横溝三郎氏死去 東京国際大監督としても手腕発揮
1964年東京五輪3000m障害の日本代表で、現在は東京国際大の監督を務めていた横溝三郎氏が11月14日に肝臓ガンのため亡くなった。84歳だった。 東京国際大は8位で2大会ぶり本戦へ 「予選会を突破することに全力を注いできた」/箱根駅伝予選会 1939年生まれの横溝氏は、神奈川県横浜市出身。中学から陸上を始め、横浜高では1年生の時からインターハイで活躍し、1年目には5000m5位、2年時には15分46秒8で優勝を飾っている。さらに3年目には5000mで連覇を達成し、1500mは4分02秒1と当時の高校新記録で2冠。秋には5000mで14分47秒6と高校生で初めて15分の壁を破るなど、スーパー高校生として名を馳せた。 大学は中大に進学。チームは横溝氏の加入とともに黄金期を迎え、1年生で迎えた第35回箱根駅伝で3年ぶりの優勝を飾ると、在学中には4連覇を達成。その後連勝記録を6まで伸ばしている。個人では4年次に10区区間賞を獲得したほか、トラックでも5000mと3000m障害で日本記録を樹立した。 実業団のリッカー入社後は実業団駅伝や日本選手権で活躍を続け、入社3年目となる1964年には3000m障害で東京五輪にも出場を果たしている。 現役引退後は、母校・中大でコーチを務めたほか、1998年からは松下通信(現・パナソニック)の女子陸上部監督に就任。2000年に退任してからは顧問の立場でチームをサポートしていた。また、箱根駅伝では解説者として長年携わり、06年までNHKラジオで8年間、日本テレビで17年間も受け持った。 さらに、11年4月に創部した東京国際大の総監督となり、大志田秀次監督(現・Hondaエグゼクティブアドバイザー)とともに、チームをゼロから立ち上げ、創部5年目となる2016年の箱根駅伝に初出場を果たすなど、指導者としても辣腕を振った。 23年に大志田監督が退任した後は、監督としてチームを指導。その後、体調を崩しながらも最後まで現場に立ち、今年10月の箱根駅伝予選会では2年ぶりの本戦出場を決め、選手とともに喜びを分かち合っていた。 横溝氏とともにチームを指導してきた東京国際大・中村勇太ヘッドコーチによると、「10月の箱根駅伝予選会でも暑い中、選手たちに声を掛け、労いの言葉を掛けてくださいました。全日本大学駅伝にも『(応援に)行きたい』と話していたのですが……」と、最後まで教え子たちの様子を気にかけていたという。 中村ヘッドコーチは「体調を崩されるまで、ずっと練習を見てくださり、『生涯現役』を体現されていた方でした」と振り返る。偉大な指導者の訃報がチームに与える影響は計り知れないが、「箱根駅伝でのシード権獲得、最高順位(5位)の更新を目指すことには変わりありません。良い結果を残して横溝さんに報告できれば」と話した。
月陸編集部