なぜ日本人は「社会」という概念がよくわからないのだろうか
「社会」という概念の抽象性
若林 それも「会社の社会史」のイベントで話題にしたんですけど、日本には社会という概念が分からなかったという。明治になって、「ソサエチー」という言葉が入ってきたとき、それをどう当てていいか分からなかった。しかも、社会というのは基本的に1つだという考え方になっているんです。つまり1つのものが社会で、それは要するに、複数あるのではなくて1個だとしかイメージできなかったんじゃないかと思うんです。 「世間の目を気にする」と僕らが言うときの「世間」って、ニアリーイコールで社会をイメージしているので、1個なわけなんです。でも、畑中さんが『宮本常一』で説明しているように、宮本が言っている世間というのは複数ある。しかも、個人もいくつもの世間に入っているんだという話はおもしろいって思った。 今、たとえば「フィルターバブル」という問題があって、僕たちは実は「社会」っていうものから完全に閉ざされている感じがしなくもない。それが「社会」だと思い込むことは危険だという見方もあるにはあるんですが……。でも、複数の世間に自分が参加できるという可能性を考慮に入れると、フィルターバブルに関わる問題も、また少し違った構えで生きることができるんじゃないかなという気がする。 宇野 「社会」という概念自体がそもそも抽象的なんですよ。ラテン語の「ソキエタース」という言葉が日本に来て、それが近代語になり、「国家」と「社会」を対置して議論するようになる。でもこれは、実感から離れたすごく理屈っぽいことですよね。 どこまでが「国家」でどこからが「社会」かなんてわからないことなんだけど、「国家」があって、それと対抗する「社会」があって、その両者の関係は……といった議論の図式がヨーロッパでできた。それを日本に持ってきたとき、どうしても「社会」というこの言葉は抽象的すぎて、リアリティがない。 福沢諭吉はそのあたりのセンスがとてもよくて、彼はソサエティを「人間交際」という言葉で訳しているんです。要するに、「社会」は親分子分の縦の関係ではなくて、人と人の間の、対等で水平な関係を指す言葉だと捉えていたんでしょうね。福沢は、近代になろうとするうえで日本は、人間の横の関係を重視すべきだということを言いたいがために、わざわざ「人間交際」という訳語をつくり出した。こうした福沢のセンスのよさは、四文字で長いせいもあり、惜しいことに流行らず、「社会」という言葉が普及してしまったんですね。 畑中 「社会」という言葉には「社(やしろ)」という字が入っていたのも、日本人には馴染みやすかったかもしれません。 宇野 「神社の神様の前では人は平等だ」というニュアンスが「社会」には入っている。ですけど、「人間交際」という言葉が持っていた、人と人との横のインタラクションというニュアンスは「社会」を使うことで、ある意味、日本の社会から落っこちてしまったんですよね。
宇野 重規/若林 恵(黒鳥社コンテンツディレクター)/畑中 章宏(作家)