京極夏彦『書楼弔堂(しょろうとむらいどう) 霜夜(そうや)』(完結巻)主人公は書籍流通の仕組み。でき上がったらお役御免です
主人公は書籍流通の仕組み。でき上がったらお役御免です
京極夏彦の明治を舞台とした小説『書楼弔堂』が第四巻『霜夜』でついに完結する。無い本は無いという不思議な本屋・弔堂の主が、訪れる客たちにその人だけの一冊を選書するという連作。今回は時計の針が明治四十年に設定されている。シリーズのそもそもの始まりから、『霜夜』に登場するゲストの人選まで、インタビューで最新作を深掘りしてみた。 この連作は、当時の担当編集者から明治時代の本屋さんについて書いてもらえないか、という提案があって始めたものです。明治は日本の書籍流通が劇的に変化した時代でした。それこそ刻一刻と様相が変わる。編集者の提案は、まだ書店で本を買うことが一般的ではなかった時期に、お薦め本を教えてくれる本のソムリエがいて……というような内容だったのですが、書籍流通の変遷自体を主役に据えたほうが絶対面白いと思いました。だから語り手の個性を前面に出さないため、視点人物については地の文に一人称を設けないという決め事をしました。第一作『破曉(はぎょう)』の視点人物・高遠(たかとお)は「役立たず」で、自由民権運動という大きな波に乗れなかった人。その頃は本の購読なんて特殊な人のすることでした。五年後の第二作『炎昼(えんちゅう)』の時代になると本も自由に買えるようになり始める。でも諸事情で「読めない人」ということで、女性の塔子(とうこ)を語り手にしました。第三作『待宵(まつよい)』の弥蔵(やぞう)は、さらに時代が進んで本も入手しやすくなっているんだけど、そういう世情から置いていかれた「時代遅れ」です。四作目を「本を作る人」にすることは最初から決めていて、当初視点人物は活字を拾う職人だったんですが、具体的な生活環境が掴みにくく、活字を作る手伝いをする男を採用しました。 ―― 本編の語り手である甲野(こうの)は、生業の長野版画が駄目になり、東京に出てきました。 近代化の役に立たない者、男性中心主義の社会の中の女性、時代遅れの老人と、明治の世の中ができていく過程でパージされてきた存在をこの連作では語り手にしています。風俗史学の資料などを読むと、明治から大正、昭和にかけては、旧態依然とした文物を攻撃することで近代人としての自我を確立しようとしていた節があります。現代の価値観で測るなら非常に差別的なまなざしなんだけれど、例えば中央に対する地方は、それだけで差別対象でした。活字を作るという仕事は、役立たずにも、当時の女性にも、時代遅れにもできない。必然的に地方出身者を充てることになりました。 ―― 最初から語り手と巻数の組合せも決まっていたわけですね。 『破曉』『炎昼』『待宵』『霜夜』という各巻の題名も決めていました。流通の夜明け、昼間、夕暮れ、そして夜中になって翌朝陽が昇る、朝昼晩夜という構成です。同時に『破曉』の第一話を「臨終」にして、『霜夜』の最終話を「誕生」にしようと決めて。 ―― 甲野が長野版画の出身なのはなぜですか。 出版に中途半端な形で携わった者が、自分の仕事に誇りを持てるまでを『霜夜』では扱おうと考えました。長野版画は江戸時代には盛んでしたが、明治になって下火になり途絶えてしまう。失業した職人が東京に出てきて出版に携わったらどうなるだろうと。ただ、版画の彫り師や摺り師と近代的な本の印刷に関わる人たちはまったく職種が違います。写植を打っていた人が、DTPでフォントを作る人にすぐにはなれないのと同じですよ。ただ同じ用途の仕事をしているわけだから、そういう転職があってもいいかなと思ったんです。 ―― 話の入り口をそうやって決められたわけですね。 甲野の自意識も重要です。江戸期の身分制度を明治はまだ引きずっていて、階層ごとに意識は異なっていたはずです。地方であればなおさらで、甲野が自分を田舎者と卑下してしまうのは、地方出身であることの引け目が彼の屈託につながっているからでしょうか。 ―― 『炎昼』の塔子が女性であるために制約を受けていたのに似ていますね。そういう点に着目されているのが小説の特徴にもなっていると思います。 この連作は特に事件が起きるわけではない、恋をするわけでもない、ただ弔堂のおやじとしゃべっているだけですからね。僕の小説はそういうのが多いんですが、それにしても何も起きない。そういう連作には、何もできない人を狂言回しにするのがいいだろうと思ったんですね。だから、面白くないんですよ、きっと。 ―― そんなことないです(笑)。 いや、面白くないんですけど、面白くないものを、面白そうに見せかけるのが小説じゃないのかと。あらすじだけで面白かったら、別に本文を読まなくていいし(笑)。