池上季実子、厳しかった父に黙って女優デビュー。大ブレイクした『愛と誠』決定後には初めての反抗「私はこれをやるの!やりたいの!」
※池上季実子プロフィル
1959年1月16日、アメリカ合衆国・ニューヨークシティ・マンハッタンで出生。3歳で日本に帰国して京都で暮らし、小学校卒業後、東京在住。1974年、『まぼろしのペンフレンド』(NHK)でデビュー。『純愛山河 愛と誠』(テレビ東京系)、映画『HOUSE』(大林宣彦監督)、映画『化粧』(池広一夫監督)、映画『危険な女たち』(野村芳太郎監督)、『男女7人夏物語』(TBS系)、『名奉行遠山の金さん』シリーズ(テレビ朝日系)などに出演。『不倫調査員・片山由美』シリーズ(テレビ東京系)をはじめ2時間ドラマ主演作も多数。映画『風の奏の君へ』が全国公開中。
初めて父親に反抗「私はこれをやるの!」
池上さんは『まぼろしのペンフレンド』でデビュー後、すぐに銀河テレビ小説『灯のうるむ頃』(NHK)に出演。そして、大人気漫画原作のドラマ『純愛山河 愛と誠』でヒロインを演じることに。 ――お父さまはかなり厳しい方だったみたいですが、芸能活動を反対されませんでした? 「大変でした。でも、小学校卒業後、母が私と弟を連れて東京に出てきて、父は関西にいて、月に1回か2回東京に出てくるという別居状態だったので、ドラマに出ることを父が知ったときにはもう決まっていたし、NHKだからということで最初のうちは黙っていましたよね。 だけど『愛と誠』が決まったときには大変でした。話をするという感じじゃないんですよ、何でもかんでも怒鳴ってくるから。 でも、初めて『私はこれをやるの!やりたいの!』って父に口答えしたんです。口答えできて叫んだんです。それまで怖くてそんなことはできなかった。その父に私が初めて反抗したものだから父もビックリして『勝手にしろ!』って出ていっちゃった」 ――記者発表も大々的にした後ですか? 「そうです。記者会見すると急に言われて。だから親にも相談してないし、私は一張羅のアイビーのワンピースを着て、ソックスにコインローファーを履いて…という学校に行く格好で記者会見に行ったんです、すっぴんで(笑)。 そうしたら、すごいマスコミの人で、そこからいきなり人生が変わっちゃったみたいな感じでした」 ――デビューされて次々に出演作品が続いて。 「そうですね。『愛と誠』もNHKの推薦で行ったわけだし、そんなこととは知らずに行ったら、ありがたいことに女優の道に転がっていっちゃったという感じでしたね。 14歳で最初に『まぼろしのペンフレンド』に出たときに、素人でド下手だったけどお芝居をすることがおもしろくて、『これはどういう風に笑ったらいいんですか?』とか、『どういう風に話したらいいんですか?』とか演出家に質問攻めでした。 普通はそんなこと聞かないでしょう? 『笑って』と言われたら普通に笑って。私はいちいち色々質問していたからスタッフたちが、『おもしろい子だな。素人のくせにこんなに色々質問したりする子っていないよな』ってスタッフルームで話していたのを銀河テレビ小説のスタッフが聞いて、収録を見にいらしていたみたい。 私はもう『まぼろしのペンフレンド』でお芝居に恋しちゃっているから、銀河テレビ小説に転がっていくのは、私の中では全然違和感はなかったですね」 ――おじいさまが(八代目)三津五郎さんですし、そういう資質もあったのでしょうね。 「今思うとあったと思います。だって、監督がこうしてって言うと、すぐにできたから。そういう勘は鋭かったみたいですね。下手だけど、言っている意味がすぐにわかってできちゃうから、それがすごく不思議だったみたいです。 幸せな役よりも不幸な役のほうが多かったし、個性の強い役とかが多かったですね。でも、それはうちの両親が色々すったもんだをずっとやってくれていたので、物心ついた頃からいろんなことがあって、そういう人間模様をずっと見ていたから、それで感性が研ぎ澄まされたというのかな。 いろんな意味で敏感になって、身についたものがいっぱいあると思うんですよね。それが毎日のことでした。ある意味、親に感謝かしら?(笑) 『この空気まずいな』と思ったら、弟を連れて違う部屋に行ったり、『これは母が殴られる』と思ったら、パッと間に入って止めたり…。そうやって、いつも人の顔色を見たり、人の表情を見たりしていました。両親だけじゃなくね」 ――おじいさまは、池上さんが女優さんのお仕事をされることに関して何かおっしゃっていました? 「その当時、『週刊平凡』に芸能で二世代とか三世代を扱ったページがあって、それに祖父と私が出たんです。それで、七代目の三津五郎、私の曾祖父の写真を祖父と二人で見ている写真を撮ってもらって。 そのとき記者の方が祖父に『お孫さんに何かメッセージは?』って聞いたら、『役者というのは親の死に目にも会えないから、そのつもりで覚悟してやんなさいね』って言われたんです。 それで、私は『じゃあ、おじいちゃまに何かあっても季実子はお仕事があったら行っちゃいけないの?』って聞いたら、祖父が『そのときはお仕事に行きなさい。それが役者だよ』って言ったんです。それが祖父との最後になってしまって…。翌年の私のお誕生日、1月16日に亡くなりました」 1975年1月16日、人間国宝にも認定された八代目坂東三津五郎さんは、京都南座に出演中、フグの肝による中毒で急逝。68歳だった。