「阿部定」はどこへ消えた…66歳の時「ショセン私は駄目な女」の書置きを残し失踪、住民票は削除、死亡届なしの謎を追う
阿部定だと名乗り出た理由
昭和16(1941)年の出所後、阿部定は数奇な人生を送ることになる。 阿部定はもともと明治38(1905)年、神田の畳屋の四女として生まれたが、数えで15歳のときに慶応の学生から性的暴行を受けたのがきっかけで、身を持ち崩した。17歳で父親に芸者として売られてからは、事件を起こすまで、日本各地の歓楽地や遊郭を渡り歩いてきた。 出所したときには、すでに両親は亡く、実姉の家に身を寄せた後、偽名のままある男性と一緒になり、籍は入れずに事実上の結婚生活を送る。 だが戦後、例の「予審調書」を下敷きにした「昭和好色一代女・お定色ざんげ」が出版され話題になったとき、阿部定はその内容が事実に反しているとして、裁判所に訴えを起し、自らが阿部定だと名乗り出た。自分の起こした事件は、決して本に描かれたような下品な色事ではなく、美しい恋愛の果ての出来事なのだと主張したのだ。 彼女は自ら手記を書き、「私が本名で暮らしていたならば、まさか私に無断であのような本が出せるわけはないのですもの。これからは、ハッキリ本名で生きていこうと思います」と宣言した。その代償は、自分の妻が阿部定とは知らなかった“夫”との別れだった。
「ショセン私は駄目な女です」
昭和24(1949)年には、劇団を旗揚げし、「阿部定劇」の座長となって全国を巡業した。阿部定を信奉する作家の坂口安吾と雑誌で対談をしたりもした。 その後は、水商売を点々とする。昭和29(1954)年頃からは、昔の知り合いの紹介で、上野稲荷町の「星菊水」で仲居として働いた。あの「阿部定」を目当てに、客が大勢押し寄せたという。 当時、身を寄せていたのは、親代わりの稲葉という夫婦で、下谷1丁目の長屋で暮らしていた。稲葉については後述するが、その暮らしが十数年ほど続いた後、台東区の竜泉で、おにぎり屋「若竹」を開くなどしたが、それも3年ほどで店じまいした。その間、映画「明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史」(1969年)に出演、「好きになるのは一生にひとりだけ」という台詞を残している。 最後に働いていたのは、千葉の勝山ホテル。だが、ある日、「ショセン私は駄目な女です」という書置きを残して、忽然と姿を消す。66歳だった。以後、消息は不明である。 阿部定事件は、戦後、何回かブームがあった。大島渚監督の「愛のコリーダ」(1976年)、川島なお美主演の「失楽園」(1997年)があり、最近では大林宣彦監督の「SADA~戯作・阿部定の生涯」(1998年)も製作された。そのたびに週刊誌やテレビ番組が、“その後の阿部定”を追いかけたが、消息はつかめていない。