「阿部定」はどこへ消えた…66歳の時「ショセン私は駄目な女」の書置きを残し失踪、住民票は削除、死亡届なしの謎を追う
新聞各社のトップ記事に
生きていれば、今年105歳になる――。 事件が起きたのは、昭和11(1936)年、二・二六事件があった年である。現場は、東京の荒川区尾久の待合「満佐喜(まさき)」。 5月18日の午後2時半頃、2階の部屋を覗いた女中が、驚いて腰を抜かした。宿泊客の男が、布団の上で大の字になって死んでいる。局部が切り取られていた。シーツと被害者の腿には血文字で「定吉二人キリ」と描かれていた。 殺されたのは、中野にある料理屋「吉田屋」のオーナーである石田吉蔵(42)。犯人はその店で働いていた阿部定(30)だった。 この猟奇的殺人事件は、時勢の混乱を押しのけて、新聞各社のトップ記事になった。残虐な事件の犯人である阿部定が、あまりにも美しい女性だったせいもある。 いかに衝撃的だったか。当時の新聞の見出しを並べてみる。 「尾久待合の怪奇殺人 七日間流連の揚句 主人を惨殺して逃走 自動車で姿消す」(報知新聞) 「待合のグロ犯罪 夜会巻の年増美人 情痴の主人殺し」(東京日日新聞) 「妖艶・夜会髷の年増美人 四十男を殺して消ゆ 変態! 急所を切り取り敷布と脚に 謎の血文字『定吉二人キリ』」(読売新聞)等々。
“紀元2600年”の恩赦で出所
事件から数日後、阿部定は潜伏先の品川の旅館で逮捕された。その逮捕直後に撮られた写真では、なぜか妖艶に笑っている。そんな写真のせいもあって、世の中のボルテージも最高潮に達した。 阿部定はなぜ吉蔵を殺めて局部を切り取ったのか。彼女は取調べで、その詳細を語ったといわれる。その記録は「予審調書」として世間に流出し、今も読むことができる。 それによると、阿部定は妻子のある吉蔵を愛したがために、永遠に自分のものにしたくて、殺した。殺害後、切り取った局部を、ハトロン紙に包んで持ち歩き、ほお擦りしたり、自分の性器にあてたりしていたという。 逮捕されたとき、吉蔵の下着を身につけていた。彼の匂いが染み付いていたからだ。 判決は、懲役6年だった。栃木刑務所と東京拘置所で服役した阿部定は、模範囚だったこともあり、4年4カ月を塀の中で過ごしたところで、“紀元2600年”の恩赦で出所した。