「機構を作れば平和になる訳ではない」創設時の NATO創設時から今につながる“危惧“ の意味と今必要な理由、先人の至言を振り返る
予測されていた世界の混沌
大変に興味深い内容である。この社説を読むと、75年前のNATO 創設当時の人々の心持ちが良く分かる。同時に、現在我々われわれが直面している問題の殆ほとんどを正しく予測していることに驚かされる。 「人生の何物も努力無しには得られない」、「未来の世代が、何らかの機構を作れば平和は自動的に達成されると考えがちなことが問題だ」、「全ての人は平和を望むが、平和の代償を払う用意がある人は少ない」との点は、正に現代に通じる至言だ。 今回のNATOサミットに向かう過程で、多くの欧州諸国が漸ようやく国内総生産( GDP) の2%を国防に支出するとのコミットメントを実現する見通しになったことは、非常に意義深い。もちろん、その実現のためにトランプ的な発言(コミットメントを果たさない国にロシアは何をしても良い等)が必要だったのかは別問題で、そのような発言は、同盟の信頼性と米国の権威を落とすことに繋がるという大きな懸念がある。
が、言い方は別にして、欧州のコミットメント未達成への懸念は、トルーマン以降、共和党・民主党を問わず歴代米国大統領が一貫して持ってきた問題意識だ。そして、第二次世界大戦終了後3年半足らずの時期で、冷戦が華やかなりし時代に、既にこのような点を指摘しなければならないような状況(緊張感の弛緩)が起こっていたと言いうのは、大いに興味深い。 換言すれば、冷戦が米国の勝利で終わってから35年経った今、我々われわれの危機意識が緩んでいるのは、ある程度止むを得ないことかもしれない。
集団安全保障措置を補完
もう一つ面白いのは、NATOを国連との関係で論じていることだ。この社説は、NATOの創設を「国連の考え方が人々の心と政治家の計算に脈々と生きていることを示すものだ」としている。また、「国連が失敗した訳では無く、各国がこの機関を作るに際して語ったことを実現できていないだけだ」とも言う。これはその通りである。 国連憲章は、武力行使の一般的禁止と言いう一大転換を行う一方で、各国の安全は、当初は個別的・集団的自衛権の行使で守り、その後は、加盟国が団結して提供することが期待される集団安全保障措置により担保されるというのが基本的考え方だ。が、その意味で、NATOは(地域を限った)集団安全保障措置であり、本格的な国連の集団安全保障措置の発動に不可欠な安全保障理事会の機能が既に当時から麻痺しがちだったことに鑑み、限られた形の有志連合で、集団安全保障措置を補完する枠組みを作ったのが NATOだということなのだろう。
岡崎研究所