宮崎宣子アナ(44)都会に憧れアナウンサーになったものの落ちこぼれを痛感する日々、体調不良をきっかけに起業し奮闘中|STORY
都会への憧れもあり、自分の知らない世界を知りたいと思っていました
何故、東京へと考えていたかというと私はドラマが大好きで、思春期はドラマのなかで都会を感じて楽しんでいました。学校の帰りにカフェでお茶をするシーンとか、本当にこういう世界あるの?と思って憧れていましたね。高校時代は帰り道に自動販売機が一個あるかないかの田んぼ道だったので、東京の女子高生ってどんな生活なんだろうと。自転車で月明かりを街灯代わりに帰りながら田んぼに落ちたりしている私とは、もう全く違いますよね(笑)。 でも、そんな大好きなドラマも宮崎では飛ばされることが多かったんです。当時は野球放送が優先されていて2話の次は5話なんてこともありました。宮崎の人は怒らないんですよ。「そうやっちゃ~、残念!」で終わるんです。優しいですよね。しかも宮崎は2つの民放のチャンネルしかないので見られるドラマと見られないドラマがあり、さらに月9と言われていたドラマは2週間遅れの土曜の夕方4時半だったような。なのでいつか全部のドラマを見たいと思っていました。東京に来た時は、テレビのチャンネルがたくさん映って嬉しかったですね。 また、宮崎にはトレンドも全然届かなかったんです。例えばルーズソックスが東京で流行っていたとき、中途半端な長さのルーズソックスしか宮崎には来なくて…。8ヶ月遅れでちょっと長いのが届いた時にはもう世の中のブームは過ぎていたような…やっと流行りが行き渡った時には紺のハイソックスが次のトレンドになっていました。 ファッショントレンド以外にもそういうことはあって、当時、ローソンが宮崎にはなかったのですが鹿児島のローソンのCMがなぜか流れてて。ローソンに憧れていました。宮崎にもローソンが出来た時はみんなで行きましたよ。からあげクンを初めて買ったときはレシートを生徒手帳に貼って、印籠のように見せびらかしてましたね(笑)。「すごーい!ローソンだー!」ってみんなで言ってました。都会には、自分が知らない楽しいことが沢山あるんだと思っていましたね。 高校卒業後は早稲田大学に進学して、アナウンサー試験を受けて日本テレビに入社しました。ここまでは思い描いた通りでしたが、ただ、宮崎の私の地域は日テレが放送されてないんですよ(笑)。だから「日テレってなんチャンだっけ?」って両親は言っていました (笑)。