濱口竜介監督作『悪は存在しない』レビュー:人間の内と外をつらぬく自然と悪の寓話(評:石倉敏明 )
美しい自然描写
弦楽器の印象的な音色が何層にも絡まり合い、冬の澄んだ陽光の漏れる森林の樹冠が映し出される。濱口竜介の『悪は存在しない』は、そうした美しい自然描写から始まる。石橋英子による静謐な緊張感を孕んだサウンドは、全編を通じてこの森林に棲む目には見えない生物たちの活動を感じさせてくれる。とはいえその光景は、決して手付かずの野生的な自然ではなく、日本の山村に特徴的な、その土地に暮らす人間との長期的な関係性を滲ませている。重要なことは、人間と自然の対立ではない。人間であれ、動植物であれ、そこに映し出されるものたちが、同じ土地の恩恵によって生きているということ。私たちが同じ陽光、同じ水、同じ土を共有する生命環境の一部であるという手垢のついた常識を、この映画は私たちの喉元にあらためて突きつける。 しかし、日本の田舎に細々と生きている人びとの生活に、大都市や大企業の論理ではない、別の物語が潜んでいるという常識に、今更どれだけの意義が認められるというのだろうか。この映画を牽引するある種の不穏さは、全編を覆う森や薪の匂い(不思議なことに、それは映像と音から実際に喚起される)や、風に揺れる葉音を縫って遠くに響き渡る鹿打ちの鉄砲の音と同じくらい、この映画の全体の色調を決定づけている。長回しの多いこの映画を決して飽きさせることなく観客に届けるのは、おそらくはこの基調的な懐疑の鋭さと、その背後に蠢動する白黒の付けられない曖昧な情動であり、それでもなお確信を持って届けられる、善悪を超えた存在論的な怒りの純度によるものだろう。
コロナ禍以降の日常
新型コロナウイルスの流行によるパンデミック禍の日本列島では、人獣共通感染症によって人間とほかの動物との間にウイルスや菌といった目に見えない媒介者が存在することに対する意識が高まった。と同時に、都市圏における集密な微生物生態系を脱して、人間の少ない田舎で週末を過ごしたり、キャンプやワーケーションといった自然と触れ合いながら自らの仕事のスタイルを見直したりしようとする人びとが増加した。長期化する経済不況のなか、ビジネスマンは政府の補助金事業に活路を見出そうとする。都会では誰もが傷つき、疲れ、壊れている。彼らは自然と田舎に、癒しを求める。それはおそらく、あまりにも長い間、田舎の人間が自らを卑下し、都会に憧れ、経済的な豊かさを求めてきた反動でもあるのだろう。とにかく、人間と人間ならざるものを巻き込む、あまりにも陳腐に資本主義化され、あまりにも安易にオンライン化された社会の日常が、ここにはある。この映画の背景は2020年代の、そうしたあまりにもありふれた光景だ。 東京からさほど遠くない山岳の麓に、美しい自然と触れながら快適に休日を過ごすことのできるグランピング場の建設計画が持ち上がった。工事者となるのは、東京の芸能マネージメント会社である。グランピング場の運営計画は、コロナ禍の補助金を活用した、芸能会社のサイドビジネスとして発案されたものだという。この事業は、つまり土地の事情に明るくない「業界人」にとって新しいマーケティングの対象であり、少なくとも短期的には、都市生活者の需要が見込める有望なビジネスでもある。しかし、その建設予定地となった山村には古くから湧き出る豊かな地下水系があり、建設計画に含まれる合併浄化槽の設置は、その水環境を長期的に汚染してしまう恐れが存在している。 映画の主軸をなす物語は、最初はこのグランピング場の開発計画をめぐるわかりやすい対立軸を明らかにする。有用な樹種に恵まれ、数多くの鹿や雉たちが生活する環境にあって、その土地を開拓する人間たちは、彼ら自身の小さな生活のために樹木や動物の資源を利用しながら、それでも樹木の過剰伐採や水系の汚染が起こらないように配慮し、人間と自然のバランスを保つことによってある種のローカルな美徳を体現してきた。計画地に暮らす「便利屋」の父(巧)とその娘(花)は、彼ら自身の生活を、そうした字義通りの持続可能性のなかに位置づけ、動植物や湧水といった具体的な環境と関わる実践のなかから直接生まれてくるような、自然との対称性に根差した生活の美を体現している。 この父子が守っているささやかな知恵は、文明を否定し自然に回帰するような抽象的な理念によるものではない。むしろそれは、世界中の先住民たちが資本主義によって撹乱された世界で生き抜くために継承してきたような、現実についての具体的な経験と感触に基づいている。ところが、補助金ビジネスの締め切りに間に合うよう、購入した土地におけるグランピング場の開発を急いで実行しようとする芸能マネジメント会社に勤める現場担当者のふたり(高橋と黛)が現れることで、物語は急展開する。 その説明会は住民との相互理解を深め計画をより良きものにするという建前でありながら、実際には土地開発事業者によって仕組まれた、一種の既成事実作りのための集会に過ぎなかった。説明する現場担当者は、実際には物事を決める権限を持っていない。彼らはただ、補助金ビジネスありきで計画を進めている東京の社長と、オンライン会議で慌ただしく実利的コメントを残していくだけのコンサル会社の社員を中心に進行している計画を担う、もっともストレスフルな現場に立たされる現場担当者にすぎないのだ。説明会で矢面に立たされる東京人ふたりの姿は、ある意味ではそうした補助金事業のシステムと資本主義的なリアリズムから導き出される典型例に過ぎないので、彼らの体現する「悪」は人格を持たず、人間的な奥行きも感じさせない。 「結局芸能事務所の小銭稼ぎに俺たちを利用しようとしているだけじゃねえか」「もう一回やろう。問題山積みなのはあんたらもわかったろ。社長とコンサル連れてきて、もう一回やろう。まだ誰も、賛成でも反対でもない」「ここら辺は戦後の農地改革で、土地がない人に与えられた土地だ。ある意味、みんなよそものなんだ。俺たちは自然を利用し、壊してもきた。問題はバランスだ。やり過ぎたら、バランスが壊れる。」土地の人びとが持っている根深い反対感情に触れた開発業者のふたりは、この説明会で受けた地元の意見を東京に持ち帰って、社長とコンサル業者に報告する。もはやふたりは、この事業を進めることは難しいのではないか、という現地側の視点を受け止めているが、それでも社長とコンサルは聞く耳を持たず、彼らの開発計画を止めようとはしない。 現場を知らないものたちが決定権を持ち、難しい交渉の矢面に立たされる現場担当者が苦労する構図は、現代のいわゆる「ブラック企業」のビジネスや官僚主導の土地開発計画にどれだけ凡庸な悪が存在しているか、という問題をはっきりと炙り出している。この観点からすれば、「悪は存在しない」というタイトルは気の利いたブラックジョークのように見える。実際、この事業に関わって疲弊した現場担当者のふたりは、もはや会社を辞めようかと思案し始めている。彼らは、社長からの指示を受けて手土産を持って再度グランピング場計画地を訪ねる途中、車内で愚痴をこぼしあい、お互いに本音を打ち明ける。前作『ドライブ・マイ・カー』を彷彿とさせる、車内での会話シーンにおける俳優たちの演技と心理描写は、本作の白眉と言えるだろう。 そして結局、計画地のローカルな経済の中で「便利屋」として生きる巧の元で、彼らは前よりも謙虚な姿勢で土地のことを学ぼうとするのだ。巧は彼らの手土産を突き返すが、それでも彼らに対して親身に薪の割り方を教え、地元の湧水で作ったうどんを一緒に食べることで、この土地に生きる知恵とヴァナキュラーな現実を、一緒に体験させようとする。 この辺りの心境変化を描写する濱口監督の脚本はじつに見事である。明示的な二項対立が現れたかと思うとまた崩れ、敵が敵性を失おうとするそのときに、人間の身体や個人の心情の深々とした現実と共に、行き場を失った存在論的な「悪」がスクリーンに滲み出す。それは経済と自然という別の対立を追走するこの映画全体を貫く音楽的モチーフとも言えるものであり、その意味でこの映画はタイトルとは逆に、凡庸な社会悪が、限りない明瞭さを持って実在する馬鹿馬鹿しさを嗤うものでもある。しかし、典型的な東京人である現場担当者が薪を割り、湧き水を汲み、巧と同じようにローカルな生活の現実を味わうとき、芸能マネジメント会社の社長やコンサル業者が体現している社会悪は後景に退き、善も悪もなくただその土地に生きようとする現実が、薄闇のようにそこに漂い始める。