死、セックス、そして金。トム・フォード、全てを語る
「私への最初の質問は『パームビーチなんかでいったい何をしているのか』ということでしょうね」 【写真つきの記事を読む】トム・フォード独占インタビュー! (米フロリダ州の町)パームビーチに似つかわしいかは別として、“キング・オブ・セックス”こと62歳のトム・フォードは穏やかで、まさにキング・オブ・セックス然としていた。彼はぼろぼろになったブルーのジーンズと黒いチェルシーブーツを履き、パールのボタンを開けたブルーのデニムシャツからは体毛に覆われた逞しい胸元を露わにしていた。ゴールドのロレックス・オイスター パーペチュアルは、グッチを率いた10年のあいだにパリのヴァンドーム広場で購入したものだ。ファッションおよびビューティ分野での30年にわたるキャリアの締めくくりとして、フォードはこの引退インタビューに条件付きで応じてくれた。彼と11歳の息子ジャックが住むパームビーチに私から出向くというのがその条件であり、それが満たされれば何だって洗いざらい話すというのだ。今年初めにファッションから身を引いたフォードは、これまでほとんどのインタビューを断ってきたというのに。対話を続けるなか、彼がそのポリシーを曲げた理由の一つに寂しさがあったのではないかと私には思われた。 「腰を落ち着けて自分のことを話すのが、慣れないことになってしまいました」と、フォードは言う。「とても奇妙な感じです。私には友人もパートナーもいません。生活の中に大人が存在しないのです。私が普段話すのは、例えば『マインクラフト』やYouTube、(リオネル・)メッシのことですから。大人の会話をしているということ自体が奇妙に感じられるのです」 トム フォードのフレグランスおよびビューティの大型ビジネスを2005年のローンチから支えてきたエスティ ローダーがブランドをまるごと買収したのは、2022年11月のことだった。28億ドル(買収当時約3900億円)の取引は、フォードを億万長者に変えただけでなく、前代未聞のラグジュアリービジネスを率いた彼の一時代に終わりを告げるものでもあった。苦難にあえいでいたブランドを立て直し、スターデザイナーとしての座を確立したグッチ時代に始まり、以降の彼は自身の名のもとでさらなる成功を重ねてきた。そうして、フォードのイメージはファッションの枠を超えて、広く文化的にセンスのよさ、セクシーさ、ラグジュアリーと同義に見なされるようになったのである。 なぜ自身のブランドを売却したのか、どうしてパームビーチに移ってきたのかと尋ねる私に彼が返した答えはどちらも同じだった。それは、「リチャードの死」である。ファッション・ジャーナリストのリチャード・バックリーとフォードが出会ったのは1986年、あるファッションショーのエレベーターの中でのことだった。エレベーターが地上階に着いたときには愛が芽生えていたとフォードは言う。その後、彼らは35年間、結婚してからは7年、2021年9月にバックリーが癌の合併症によって死去するまで生涯をともにした。 喪失のさなか、フォードとジャックが移り住んだのが、このパームビーチだった。1920年代に建てられた邸宅は近隣住民との住居交換で手に入れたもので、取引には100億ドル以上の金額が動いたとされる。私たちが居間に座っていると、執事のアンソニーがフォードにダイエットコークを、私に炭酸水を運んできてくれた。外からは度々、ドスンという音が聞こえてきた。ジャックがゴールネットにサッカーボールを蹴り入れる音だった。 フォードにとっては珍しく平穏な瞬間である。フルタイムの映画監督としての3幕目を前にした小休止だ。それでも、彼らしい独特の振る舞いは健在だった。絶妙な昔気質の物腰、大げさな言葉遣い、破壊的なまでのチャーミングさ、挑発的な言動、そして聴く者の胸を締め付けるような瞬間もしばしばだ。「1年ほど前でしょうか、テニスでケガをして膝を手術したときのことです。麻酔が必要となり、医師に緊急時の連絡先を尋ねられました。私には誰もいませんでしたから、秘書の名前を使いました」 フォードの居間での3時間を皮切りに始まったインタビューは、近所のレストランLe Bilboquetの個室でのディナーにまでずれ込んだ(彼は私の滞在するホテルまで、シリウスXMのラジオ局「Studio 54」がかかる黒のレンジローバー オートバイオグラフィーで迎えに来てくれた)。最終的にインタビューが完了したのは数週間後、Zoomを介してのことだった。 ──ジョークを考えてきました。9月のパームビーチに最適な服装は? 答えは9月にパームビーチにいるべきではない、というものです。 「その通り。9月のこの町は不気味なゴーストタウンです。しかもシーズン中はニューヨークの郊外みたいなもの。所要時間2時間20分、時差なしです。水曜日にロンドンを訪れる予定ですが、ジャックも一緒です。リチャードが死んでから、私まで死ぬのを恐れているので」 ──口に出して言ったのですか。「もう一人のお父さんまで死ぬのが怖い」と? 「ええ、それはもう。いいですか、私は飛行免許を持っています。そうしたら『墜落するかも』と言うんですよ。『墜落なんてしないよ』と答えると、『そんなことわからない』とね。確かに、そんなことはわかりません。『それじゃ、お父さんがどこかへ行ったら飛行機が墜落した。でもお前は生きている。一緒に旅していたらお前まで死ぬ。どっちがいい?』と訊くと、『一緒がいい』と言うんです」 ──つらい話です。どういった経緯でパームビーチに来たのですか。 「リチャードと私は22年間ロンドンに住んでいました。それとパリに10年、ミラノに4年です。しかし病気の彼のために、我々はロンドンからロサンゼルスに戻ってきました。ロサンゼルスで過ごした場所は、ほぼシダーズサイナイ(医療センター)でした。ロサンゼルスの家での思い出は悪いものばかり。悲しい家でした。リチャードの死後、マドンナがCAA(クリエイティヴ・アーティスツ・エージェンシー)で4人ほどの出席者に向けて行った試写会の帰りのことです。私は車を運転していました。通りはどこも閑散としていて、隣にリチャードがいることに慣れきっていた私は、ひどく孤独な気持ちになったのです。こんな寂しい場所はない、すぐに出て行かなくては、とね。私は考えました。ジャックに彼らしい生活を送らせることができるのはどこだろうかと。毎日テニスやサッカーができて、暖かく、プールがある場所。そしてリベラルな小学校も。グッチにいた頃から、パームビーチには馴染みがありました。ショーを終えた後、私はよくここで小さな家を借りて、プールの横で寝そべったりしながら、何もせずに過ごしていたのです。作家のアン・ライスは自身の作品の中で、150年ごとに地中に自らを埋めては蘇り、生を謳歌するヴァンパイアの姿を描きました。(永遠の命は)手に余るからです。私がやっていることもそれです。つまり、リセットです。自らの第3幕を考えるうえで必要なことでした」 ──自身の会社を売却した今、第3幕はどのようなものになると考えていますか。 「会社を売ったのにはいくつか理由があります。デザイナーとして35年が過ぎた今、ファッションを通して言いたいことは全て言い尽くしたと感じたのです。引き際を知ることは重要ですから。2本の映画を制作したのは素晴らしい経験でした。これまでの人生で最も楽しいと思えたことです。私は今62歳。幸いにも82まで生きられるとしたら、次の20年は映画を作って過ごしたいと思っています。時間は過ぎていくばかりですから、ファッションには別れを告げるときでした。ファッションは若い人の商売です。62歳でファッション界を変革するデザイナーなんてほぼいませんからね。私は35歳、もしかしたら45歳まではそれができました。その後は、名前で大金を稼ぐ段階へと移行していったのです」 ──ビジネス売却の決め手となったほかの要因は何だったのでしょうか。 「リチャードの死です。まったく、運命というやつは。人は死ぬと、目は開いたままになるんです。閉じることができないんですよ。映画で観るように、こうやって(手でまぶたを閉じる仕草をしながら)閉じようとしても、開いてしまうんです。彼とはそうやって2時間、一緒にいました。その日に死ぬなんて予期していませんでしたから。彼が連れて行かれる前に、結婚指輪を取り去って、腕時計を外して、身体をひっくり返してポケットから財布を抜き取らなければならず、まるで盗みを働いているようでした。帰りの車の中では、限られた時間という考えばかりが巡っていました。どうしても映画を作りたい、時間がない、とね」 ──若き日のトム・フォードに言及したインタビュー記事の多くで、あなたは自身のことを「気難し屋」だったと言っていますね。 「実際、そうでしたから」 ──どの靴を履くかについて非常にこだわっていたそうですが。 「ええ」 ──そして、母親が家を留守にすると……? 「家具の配置を換えていました。本当に、いつもそうしていたんです」 ──そのようですね。私があまり見つけることができなかったのは、あなたのハイスクール時代のことです。10代をどのように過ごしましたか。 「ニューメキシコ州の小さなハイスクールに通いました。サンタフェ私立中等学校です。私は非常に内気でしたが、いい生徒でした。それにええと、自惚れ屋に聞こえるかもしれませんが……」 ──どうぞ。 「子供の頃、自分がいいルックスをしているなんて考えもしませんでした。誰も言ってくれませんでしたから。ハイスクールで思春期を迎えると、突然女の子たちにもてるようになったのです。私はスキーチームに所属していて、ガールフレンドも何人かいました。セックスを経験したのもかなり早かったですね。よく酒を飲み、よくハイになっていました」 ──何でハイになっていましたか。 「たいていはマリファナです。しかし、学校の子たちはそれなりにお金を持っていましたから、コカインもすぐ手に入りました。週末には“ザ・ヒル”という場所に皆で行って、車のドアを開けてステレオを鳴らし酒を飲み、ハイになっていました。それと、誰かの家でパーティを開いたときには、皆で裸になってジャグジーに浸かっていました。(Z世代のティーンエイジャーを描いたドラマ)『ユーフォリア/EUPHORIA』のようだったとは言いませんが、今の子たちよりも進んでいたかもしれません」 ──当時はどんな格好をしていましたか。 「ニューメキシコで“バスケス”と呼んでいるハイキングブーツ──本当は“バスク”が正しいのでしょうが。リーバイスの501、ブルックス ブラザーズのボタンダウンシャツ。それにツイードのジャケットか、ダウンの入ったスキージャケット。名門大学への入学を目的にしたプレップスクールでしたから、東海岸の学校を気取っていたんですよ。運が良ければ、そこからプリンストン大学に入れました。私はプリンストンからは早くに不合格通知を受け、最終的にニューヨーク大学に進学しました」 ──その時代のことを話してください。ニューヨークに着いたときのこと、ナイトクラブ“スタジオ 54”を初めて訪れたときのことなどを。 「スタジオ 54に初めて行ったとき──しかもアンディ・ウォーホルと一緒に──というのは、まるで映画の中の出来事のようでした。その頃、私はニューヨーク大学のワインスタイン寮というところに住んでいました。コンクリートのブロックでできた学生寮です。2人のルームメイトには苛立たされたものですが、私がちょっとわがままだったのかもしれません。自分の部屋に閉じこもって、とにかく何かが起きてくれと願っていました」 ──何でもいいから! と? 「すると、金髪でフェアアイルのセーターを着たイアン・ファルコナーという若者が、美術史の講義中いつも私のところにやって来るようになりました。私は『かわいそうに。友達がいないのだな』なんて思っていたのですが、彼がゲイだということには気がつきませんでした。私を誘っているということにもね。彼は私の寮にやって来て、『“スタジオ”に行きたくないか』と尋ねました。私はブルーのジャケットを羽織り、彼は友達の家に寄らなきゃと言いました。私たちがそこに着くと、彼は出迎えた男性とお互いの口にキスをして挨拶をしたのです。そこにいたのは男ばかりで、皆ラコステのポロシャツを襟を立てて着ていました。私は『なるほど、彼らはゲイなのか。これには昔から興味があった』と思い、ウォッカを一気飲みしました。すると、そこにアンディがやって来たのです。私たちはキャデラックのリムジン2、3台でスタジオ 54に乗り付けました。あのドアを通り抜けると、それはもう信じられない世界でした。長い廊下は鏡張りでゴールドに塗られ、コカインの匂いが立ちこめていました。誰もがドラッグを堂々とオープンにやっていました。夜が明ける頃には、私は帰りのタクシーの中でイアンにフェラチオをしていました。5番街8丁目にある家を、彼は(写真家の)パトリック・マクマランとシェアしていました。翌朝、ロフトにあったイアンのベッドで目が覚めたのを憶えています。『いったい何てことをしてしまったんだ?』なんて思いながらね。それで、映画のワンシーンみたいに、彼にこう言いました。『素敵だったけど、自分はゲイじゃないんだ』とね」 ──彼が何と返したか憶えていますか。 「いいえ。数週間後、彼とは付き合うことになって、悪い気はしませんでした」 ──ニューヨーク大学を卒業後、あなたはパーソンズ・スクール・オブ・デザインのパリ・キャンパスで建築を学び始めます。その時点では、将来的にどのような職に就くことを考えていたのでしょうか。 「建築は自分にとって真面目すぎると思いました。モスクワに旅行に行ったときのことです。気分が悪くなってホテルの部屋で休んでいたとき、心の中で何かが引っかかっていたのを感じていました。そして夜中になって、自分はファッションが好きなのだと気がついたのです。ファッションデザイナーになるべきだとね。卒業後、ポートフォリオを製作しました。スケッチは得意でしたから。そうして(ファッションで有名な)7番街を回って、仕事を得たのです」 ──ファッションのキャリアを最初から振り返りましょう。ペリー エリスで働くきっかけは何だったのでしょうか。 「マーク(・ジェイコブス)が雇ってくれました。当時、ペリー エリスの全てを統括するクリエイティブ・ディレクターは彼でしたから。彼にはひどく嫉妬したのを憶えています。年下なのに私よりも成功していましたからね」 ──その後すぐに、グッチでの役職を得てミラノに移りましたね。 「私は当時から現実的に考えていましたから。ヨーロッパで名が売れれば世界的なデザイナーですが、アメリカで有名になっても“アメリカのデザイナー”でしかありません。カルバン・クラインですらヨーロッパでは何でもありませんからね。マークのブランドが世界的になったのは、彼がルイ・ヴィトンに行ったからです。そうでなければ、マーク・ジェイコブスが何者かなど世界は知る由もなかったでしょう。だから、努力してファッションデザイナーとして成功するためには、ヨーロッパに行かなければならないと考えたのです」 ──あなたは30歳でグッチのデザイン・ディレクターになりました。当時、壊滅状態にあったグッチを立て直すのがあなたの責務だったと思います。グッチはあなたにとって夢の仕事だったのでしょうか、それともヨーロッパへの足がかりに過ぎなかったのでしょうか。 「足がかりでしたね。マウリツィオ(・グッチ)の夢は、自身のブランドを“イタリアのエルメス”にすることでした。彼の子ども時代にはそうだったかもしれません。いい夢、いいアイデアですが、それはファッションではありません。彼らは人々が思うような服を作らず、ランウェイショーもほとんど開きませんでした。そこで私は、ヨーロッパの工場や生産プロセスを全て把握したら、自分のブランドを始めようと思いました。しかし、すぐにそんな必要はなくなりました。(1994年に)クリエイティブ・ディレクターになった途端、自分のブランドのように感じられ始めたからです。そうして、グッチに自分の個性を接ぎ木していくようになりました」 ──あなたの昔のファッションショーを改めてYouTubeで観てみましたが、非常に性的なコレクションばかりだということが印象に残りました。グッチでのあなたの仕事にかかったマジックは、セックスにまつわるものがほとんどですね。 「ショーの前には、モデルたちに向かってマイクを使ってこう言いました──お酒を飲んだ後ですよ? 『ランウェイを歩くとき、誰もが君らをファックしたいと思わせなくてはいけない。誰もがだ』とね。もちろん、そんなことはもうこの5年は言っていません。モデルに対して『誰もが君らをファックしたいと思わせろ』なんて今では言えませんからね。でも、かつては常に言っていました。見え方だって歩き方だって大事なんですよ」 ──グッチ時代を掘り下げていきましょう。マウリツィオ・グッチが射殺されたと知らされたとき、どこにいたかを憶えていますか。 「ええ、もちろん。フィレンツェの工場にいました。朝早く、午前8時半頃のことです。マウリツィオは、私のオフィスから通りを挟んで向かいにオフィスを構えていました。彼が撃たれた階段は私の窓から見える場所でしたが、私はそのときそこにはいなかったのです。おそらく、最初は誰もがマフィアの仕業だと思ったでしょうね。リドリー(・スコット監督)は映画(『ハウス・オブ・グッチ』)で語りませんでしたが、マウリツィオは(投資ファンド)インベストコープに4000万ドルを支払わなくてはならないことがあったのです。彼にはそのお金がなく、銀行も貸し渋りました。ところが、どういうわけか彼はそのお金を工面できたのです。マフィアが融通してくれたのだろうと思いましたね。そこはイタリアでしたから。それと、リドリー・スコットの映画では、私がマウリツィオに会うなり『Tバックを穿いた男たちがいる』と言う場面がありますが、あれは嘘です。男性のTバックは、私が入ってからのものですからね(笑)」 ──『ハウス・オブ・グッチ』はやや凝縮され気味でした。あなたの最初のショーは成功とは言えませんでしたよね。 「あれはひどかったです。ショーの後、リチャードは『セクシーにする方法を考えないといけない。女の子たちが着たいと思える服でなくては。女の子たちに着たいと思われていないんだ』と言いました。彼のその言葉だけで十分でした。私は『それだ!』と思いましたね」 ──ブレイクスルーとなったのは何だったのでしょうか。 「メンズウェアが最初でした。フィレンツェでのメンズショーです。当時の私はまだ若く、クラブに通ったりもしていました。そこで70年代リバイバルの兆しを感じたので、それを本格的に取り入れてみたんです。グッチのメンズローファーをパテントレザー仕立てにしたり、ベルベットや多彩なカラーを用いたり、シルクシャツの前を大きく開いて着せたりね。それが成功したため、ウィメンズにも広げていこうと思ったのです。実際には、カットアウトが入ったホワイトのドレスや、タキシードを着た女性などを登場させた次のショー(1996年フォールコレクション)が、自分のパーマネントなスタイルに最も近いものとなりましたが。やや控えめではありましたが、会場にいた人々の琴線に触れたのが感じられました。あの頃は誰も携帯電話なんて持っていませんでしたから、13分間まるまる彼らに衝撃を与えることができたのです。彼らを惹きつけ、涙が出るほど美しいものを見せることでね」 ──そうして世界の注目を集めたあなたのグッチは、当時最もホットなブランドとなりました。プレッシャーはありましたか。 「いえ、夢中でしたから。そのことを糧に成長していっただけです。ウィメンズ・ファッションで成功するためには、それだけを吸収して生きることが必要なのです。1日24時間、ほかのことは考えられません」 ──グッチでの3つのショーで時代を掴んだあなたは、その後どのように勢いを保ってきたのでしょう。 「簡単なことです。ブレずに自分らしさを貫き通すのですよ。『どうしたら何もかもこんなにセクシーにできるのか? どうして何もかもこんなにセクシーにするのか?』と、よく訊かれたものです。セクシーなドレスを作らねばと言って制作にとりかかることはありません。出来かけのドレスを前に、『腰が見えない、尻を見せたい、オッパイはどこだ?』なんて言いながら磨きをかけていくのです」 ──以前、ロサンゼルスでディナーをご一緒したとき、あなたは「世界に自分を知らしめることができるのは一度きりだ」と言いました。 「その通りです」 ──グッチでの10年が、あなたに与えられたチャンスだったということでしょうか。 「そうです。その後のキャリアを通じて、巧みに乗り切りましたが。私には10年間がありました。人に与えられているのはその程度でしょう。広報担当者は、私にそんなことを言うなと忠告するでしょうが。しかし、私が目立った変化をもたらしたのはあのときだけ。私が30代、40代の頃の話です。テイラー(・スウィフト)にはこれから何年残されているでしょう? ザ・ビートルズを見てください。振り返ってみれば、彼らが存在していたのはせいぜい7、8年です」 ──その後は、ボードの上で駒を動かしていただけだと? 「いや……あれだけの時間が与えられたのだから、素晴らしいことでした」 ──グッチ時代のワイルドな思い出を教えてください。 「ええと、話していいことにも限度というものがありますよね? 難しいな。ショーで例のTバックを見せたかったとき、いい男性モデルを見つけるまでが大変でした。ありがたいことに1人が『やります。Tバックを穿きましょう』と言ってくれるまでね。ショーの当日、ランウェイへ出て行こうとしている彼をチェックすると、まるでピーター・コットンテール(アメリカの作家ソーントン・バージェスによるウサギのキャラクター)のようでした。尻の割れ目から、たくさんの毛がはみ出していたのです。私は『バリカンを貸してくれ』と言って、彼を屈ませてビュッと一気に刈ってやりました。そして『よし、出て行っていい』と言い、彼は出て行ったのです」 ──今回調べるまで知らなかったのが、あなたがLVMHやケリングという企業体が支配する現在のファッション業界のシステム構築にまで関わっていたということです。1999年、ベルナール・アルノーとLVMHがグッチの敵対的買収を試みたのは、あなたとドメニコ・デ・ソーレ(グッチ・グループCEO)が力を持っていた時期でしたね。 「あのときは毎日毎日、新聞が書き連ねてうんざりしました。『フィナンシャル・タイムズ』や『ウォール・ストリート・ジャーナル』をはじめ、あらゆる新聞がです」 ──LVMHによる買収は最終的に、あなたとドメニコ、それにフランソワ・ピノーの同盟によって回避されました。ピノーはそれまでラグジュアリービジネスの経験がありませんでしたが、グッチの筆頭株主となりました。グッチ・グループが、ケリングという複合企業へと変身していくのはここからでしたね。 「ケリングは私たちが作りました。ケリングという名称になったのは後からですが、作ったのは我々です」 ──グループを作ったのはなぜでしょう。 「フランソワとの合意で、我々は30億ドルの資金を成長目的に投資する必要がありました。最初に買収したのがイヴ・サンローランで、取引額は10億ドル。買収に伴う条件は、私がデザインを担当する場合に限るというものでした。当時は、私が触れたもの全てが成功しましたからね。常にそうだというわけではありませんが、あの頃は確かにそうだったのです。資金を活用しなければならないが、いったい誰に投資するか? そこにいたクリエイティブは私だけです。何があるかわかりませんから、それだけの大企業を1人のクリエイティブで賄うわけにはいきません。私が敬服するデザイナーは誰だろうと考えました。私が敬愛し、嫉妬すらする人物を獲得しなければいけないとね。それで、リー・(アレキサンダー・)マックイーンに白羽の矢を立てたのです」 ──デザイナーとしてのアレキサンダー・マックイーンに対する評価を、もう少し詳しく訊かせてください。 「私は商業的なファッションデザイナーでした。私の作風にアーティスティックな面がなかったという意味ではありませんよ。それでも、私は商業デザイナーで、リーはアーティストでした。彼はたまたま服というメディアを使って、自己表現をしていた作家だったのです。当時ホットだったのは(現在ルイ・ヴィトンでレディース アーティスティック・ディレクターを務めている)ニコラ・ジェスキエールです。絶対的な存在で、私とはまったく違うことをやっていました。私は彼に自身のコレクションを始めてもらいたいと思ったのですが、彼はやりたくありませんでした。それで、我々は彼がいたバレンシアガを買ったのです。ステラ(・マッカートニー)も、我々とはまったく異なる顧客層に向けていました。環境保護について、彼女は誰よりも早くから取り組んでいましたからね。ボッテガ(・ヴェネタ)の買収では、トーマス・マイヤーが狙いでした。彼は80年代にリチャードと親友同士で、センスも抜群でした。ブランドを集めるときは、お互い競合しないように多様性のあるラインアップにする必要がありました。それに、敬愛するデザイナーであることも重要でした。我々が取り組んだのはそういうことです」 「私は半分ビジネスマンで半分デザイナーですからね。いつだってそうでした。私のビジネス脳には直感力が備わっているんです。次に何が来るのか、感覚でわかるのです」 ──アルノー家やピノー家との複雑な歴史を抱えてきたあなたが、彼らと今でも友好的な関係でいられるのはどうしてでしょう。 「そんなことが問題でしょうか。ビジネスですから。私はベルナール・アルノーには多大な敬意を持っていますよ。だって、彼が築き上げたものなど、どうしたら築くことができるでしょう? 彼らの子どもたちもそうです。彼らも同じように仕事をしています。つまり、それも両親から受け継いだもののはずなのです。フランソワ・ピノーやフランソワ=アンリ・ピノーも同様です。フランソワ=アンリと(妻の)サルマ(・ハエック)とは仲良くしていますよ。彼のことは好きですからね」 ──しかし、どうしたら? あなたはグッチのことをとても大切にしていたではないですか。でも彼らは去って行くあなたにつらく当たりませんでしたか。 「ビジネスですよ。あくまでビジネスです」 ──ビジネスの成功は、クリエイティブ面での成功と同じように興奮するものですか。 「そりゃ、私は半分ビジネスマンで半分デザイナーですからね。いつだってそうでした。私にはある才能があります。私の前に5足の靴を置いてもらえれば、そのなかから最も売れるものを選んでみせますよ。私はおそらく、いや願わくば、高いレベルでの商業的なセンスの持ち主ですから。私のビジネス脳には直感力が備わっているんです。感覚的に、それがビジネス上の正しい選択だとわかるんです。表計算ソフトばかり見ている人が首を傾げるような決断だとしてもね。次に何が来るのか、感覚でわかるのです」 ──ラグジュアリーファッションから退いた今、次に向かうところはどこでしょうか。 「さあ、何も思いつきません。引退もそれが理由の一つですからね」 ──嘘でしょう? 直感力はどこへ行ったのですか。 「私がこのビジネスに入った頃のそもそもの動機とは、随分かけ離れてしまいました。部屋に入ってきた瞬間、見た人がはっとするような、着た人を魅力的にする美しい服を作りたい。私はそう思ってファッションデザイナーになりました。それが今では──変質がもたらしたものを頭で理解することはできても、好ましいとは必ずしも思えませんから」 ──先日あなたは、トム フォードの後任で長年の部下であるピーター・ホーキングスについて、私にSMSで話してくれました。仕事を始めるに当たっての彼の発言に、あなたは不快感を示していましたね。 「あれから少し落ち着きました。しかし『GQ』のブログか何かで、ピーターはトム フォードのメンズウェアを白紙から始めることができたと話していましたね」 ──ええ。 「あれには驚きました。(2007年に)トム フォードでメンズウェアを始めたときというのは、私のキャリアで最も誇らしい瞬間の一つでしたから。グッチ時代には、(フィッティング用に)何かが必要になればすぐに作らせることができましたが、(自身のブランドになると)それが突然できなくなりました。それで、自分のワードローブから私服を全て持ち込んだのです。作らせた服は全て私の寸法です。幸い、私は48のレギュラーサイズでしたから、それがフィッティングの寸法になりました。全てのスーツは、私自身に着付けしながら仕立てられていったのです。そのとき、ピーターはまだグッチでジョン・レイのアシスタントをしており、私のブランドに参加するまでしばらく間がありました。最初の数年のコレクションは私自身を土台に作られたため、極めてパーソナルに感じられるものだったのです。店舗向けには、私物のソファのコピー品を送り出したり、私の所有しているアートを貸し出したりまでしました。私の最も誇らしいことの一つだというのは、それが会社の基礎となったことが理由です。そういうわけで、(最近になって)彼に連絡をとりました。『ピーター、こんなことを公の場で言って反論するようなことはしたくない。でも、白紙というのは違う。今はそれほどでもないが、あのときはとても怒りが湧いた』とね。いいですか、自分の会社を売却するときには、あらゆることに備えておかなくてはなりません。私も覚悟を決めています。会社が今後どこへ向かっていこうと、ピーターが白紙から始めるのはこれからです。でも、それは私のレガシーの上にあるものです。トム フォードという会社も、グッチのトムも、サンローランのトムも、それは私のものなのです」 ──ピーターと直接話してみてどうでしたか。 「直接会話したわけではありません。メールのやりとりだけです。私が言いたかったことについて、慎重に言葉を選びたかったからです。それに、感情を排除したいとも思いましたからね。一日中、座ってメールを綴っていました。どんな場合も、それがいちばんだと思っています。彼がランウェイで発表したものについて悪く思ってはいません。素敵でしたし、とてもよくできていたと思っています。ブランドのスピリットをよく体現してもいましたし。ウィメンズファッションは難しいものです。これから彼は、アレッサンドロ・ミケーレがグッチで見せたように革新的なものをある程度作っていく必要があるでしょう。とにかく、けちなやつだと思われるかもしれませんが、これが自分の気持ちだと認めるくらいには自意識過剰なのでね。私は、幸運にも素晴らしいキャリアを歩むことができましたから」 ──ピーター・ホーキングスのトム フォードでのデビューでも、サバト・デ・サルノのグッチでのデビューでも、ミラノ・ファッションウィークで共通して話題になったのは“グッチ時代のトム・フォード”からの影響でした。 「素敵なことですが、あまり深く考えてはいません。ファッションには周期性がありますから。あれはもう──何てこった、20年前か。自分の仕事が再び戻ってきたことはうれしく思います」 ──あなたがこれまで起用してきた男性のなかで、トム フォードの男性像を最もよく体現したのは誰でしょうか。 「困ったな。トム フォードの男性像を最もよく体現した人物か。そりゃ“私”ですよ。自分自身のために作っていましたからね。(トム フォードを着た)最初のセレブはブラッド(・ピット)でした。当初、ブラッドとは独占的な取り決めがありました。私が着せるのはブラッドだけ。彼がイベントなどで着るのは私の服だけ。グッチでは誰も彼もに服を送っていましたが、そのせいでステータスを下げてしまいました。トム フォードでは、ブラッドひとりと決めてアプローチしたのです」 ──彼にはお金を支払っての契約だったのですか。 「いえ、セレブリティに服を着てもらったり、ショーに来てもらうのに対価を払ったことは一度もありません。決して、絶対に。今では誰もがやっていることですが」 ──あなたは以前、禁酒して14年になると私に話してくれました。飲酒をやめたとき、薬物も断ったのでしょうか。 「アルコールが薬物摂取への入り口でした。ええと……息子はまだその辺りのことを読んで知ってはいません。いずれ知るでしょうが。彼とは話さなければなりません。息子にも私と同じイギリス系、アイルランド系の血が流れていますからね。我々は依存しがちな傾向にあるのだと思います。父も大酒飲みでしたから。ともあれ、アルコールは別のものへの入り口になりました。コカインはファッションの世界でポピュラーなものですが、朝からやり始めたとき自分が問題を抱えていると気づきましたね」 ──コーヒー代わりに、ということですか。 「ええと……」 ──コーヒーに加えてですね。 「そうです。煙草に火を付けて、それから──そう。あれは問題でした。でも、やめました。続ければ死ぬと思いましたから。セラピストに助けてもらって、本当にやめることができるまで1年ほどかかりました。それから、アルコール依存症についての本を何冊も読み始めて、エタノールがどれだけ人体に有害かを知りました。それで、自分が本格的にアルコール依存症を抱えていたということに気づいたのです。(依存症を患うと)朝から幻覚を見るんですよ。(椅子の肘掛けを叩きながら)アリを殺しているような気がしたり、気を失ったりね」 ──自身の会社、トム フォード インターナショナルを売却して、どんな気分でしょうか。 「自分はいつか死ぬということに気づきました。それから、私が作ったものは自分よりも長生きするということにも。なにしろ大金が絡んでいますから、簡単には無くなりません。これから50年後、いや5年かもしれませんが、私がうんざりするようなものがたくさん生み出されるでしょう。死者に鞭打つようなことを人はしがちですからね。どうせなら、その人物が生きているうちからにしてはどうでしょう? バレンシアガやジバンシィが──ユベール・ド・ジバンシィのことですが──彼があれを目にしたら死んでしまったかもしれません。クリストバル・バレンシアガだって。だから、残りの人生を楽しんで、クリエイティブでわくわくすることに時間を費やすのがいいではないですか」 ──どのようにそれを行うつもりですか。 「会社を売ろうというとき、ゴールドマン・サックスを訪問しました。そういうときには、複数の入札者向けに説明をするものですが、彼らが最初に作成したプレゼンはあまりにも私に寄りかかったものでした。私は、『このビジネスがこれほど私に依存しているのだとしたら、そんなものをいったい誰が買うというのか』と思いました。私は彼らに、私が死んだものと思ってプレゼンを作ってくださいと頼みました。どのみち、ブランドには私の名前があるのですから(と言いながら、フォードはジーンズの中に手を入れ「TOM FORD」のロゴが入った下着のウエストバンドを引っ張り出した)」 ──ちょっと待ってください。下着を穿くようになったのですか。 「ええ」 ──なぜです? 「特にジーンズのときですね。これなんか破れがあるでしょう。気がつけば、また別の箇所が破れてくるものです。10年ほど前でしょうか──本当の話ですよ? 下着を着けるようになる前、見下ろすと睾丸がはみ出ていたことがあったものですから」 ──映画の話をしましょう。ファッションや出版業界のペースに慣れている人間からすると、ハリウッドは恐ろしくスローペースに見えます。 「監督として、1本の映画を作るのに3年はかかります。おそらく、私の人生にはあと5本くらいしか撮る時間が残っていませんから、1本1本が意味のあるものでなくてはなりません」 ──では、現在は複数のプロジェクトに携わっているのでしょうか。それぞれ異なる段階にあるような? 「1本はオリジナルで、極めてパーソナルなものです」 ──『シングルマン』(2009年)と『ノクターナル・アニマルズ』(2016年)は、どちらも原作付きでした。今度は完全にゼロからの作品なのですか。 「完全にゼロからです。もう1本がアン・ライスの小説を原作にしたもので、2004年に始まった企画です。当然、彼女がまだ存命の頃にね」 ──執筆のプロセスはどのようなものですか。 「説明的に書いていきます。毎朝、9時に始めて1時まで。言いたいことがなくても、とにかく言葉を打ち込んでいきます。私にとって、映画制作の醍醐味は執筆にあります。書いているときは何もかも完璧ですからね。誰の失敗もありません。衣装は完璧、台詞回しも私の思い通りです。大変なのは撮影です。あれもできなかった、これもできなかった、それでも続けなくてはいけない。スケジュールがありますからね」 ──宗教的には、自身をどこに位置づけますか。 「しばらく信仰心を持っていたことがありました。飲酒をやめた頃だと思います。『シングルマン』の脚本を書かなくてはと思えたのも、それがあったからです。(原作者)クリストファー・イシャーウッドはとてもスピリチュアルな人物でしたから。東洋的な意味でね。私も老子の『道徳経』を毎晩寝る前に読んでいました。力強い言葉に感銘を受けて、それを自分のものにできたのです」 ──道教にもう一度向き合ったら、同じだけの影響力が今もあると思いますか。 「試してみないとわかりません。私は現実的な人間ですから。科学的に何かを理解しているわけではありませんが、とてつもなく広い宇宙の中で、我々の惑星は取るに足らないものです。アン・フランシスが出演した1950年代の映画で、非常に先駆的な作品がありました。その映画の発想は、人類進化の目的は意識そのものとなるAIを開発することではないか、というものでした。つまり、我々の姿形に似せて作られた神のような存在として、全ての人間のありとあらゆる要素を内包するだろうと。そうなると、最終的に我々は不要になります。もしかしたら、我々の進化の目的は生物としての活動を終えて、存在として次のレベル──電子的な意識を創造することかもしれないとね。何て映画だったか、『禁断の惑星』かな? よく憶えていません。まあ、どうでもいいか。あまり面白い話ではなかったですね。録音を止めてください。ディナーにしましょう」 From GQ.COM By Will Welch Photography by Tom Ford Translated and Adapted by Yuzuru Todayama