元メジャーリーガー、岩村明憲はなぜ独立リーグ・福島で10年も戦い続けているのか?
「畠山だけでなく、引退した選手も含めて自分の息子と思っています。チームが誕生したときから関わり、一期生から指導してきました。それは全員、かわいいですよ。ただし、かわいいからこそ厳しいことを言わなければいけないときもあります。この子たちがうちを辞めたら、とりあえず最終経歴は『福島レッドホープス』になります。野球選手を引退して就職先を探し、面接担当者が履歴書を見たとき、『福島レッドホープス? 岩村が監督をしているチームか』と思うわけです。社会人として非常識な行動をすれば『岩村の下で何を学んできたのか!?』と言われてしまう。それは自分としても恥ずかしいことです」 野球を通じて福島復興に協力してほしい――。 10年前の2014年10月、岩村は当時福島に誕生したばかりだった「福島ホープス」のゼネラルマネージャーから熱烈なラブコールを受け、「監督兼選手」という立場で入団した。 14年シーズン終了時、ヤクルトを戦力外になった時点ではNPBの他球団移籍、あるいはメジャー復帰と、「1パーセントでも可能性がある限り挑戦したい」と現役続行を希望していた。 タンパベイ・レイズ(入団時はデビルレイズ)時代、セカンドの守備についていた際、走者の危険なスライディングを受けて左膝を大怪我して以降、繊細な感覚を取り戻すことができずにいた。とはいえ当時まだ35歳。気持ちはもちろん、肉体的にも老け込む年齢ではないように思えた。 チーム環境や起用の方法、そしてヤクルトの若手時代に中西太という打撃の師との出会いで大きく成長したように、良き理解者や指導者との巡り合わせ次第では、復活できる可能性はゼロではなかったはずだ。しかし独立リーグで監督兼任となれば、事実上選手としては、メジャーはもちろんNPB復帰の道も閉ざされることを意味していた。 岩村はそれでも要請を受けた。 「楽天に入団して迎えた最初のシーズン、2011年3月11日に東日本大震災、そして福島第一原発事故が起きました。1ヵ月間、オープン戦の遠征先から東北に戻ることができない状況が続き、ようやく戻ることができてからは被災地に入り、各地で支援活動を行ないました。 4月22日に千葉マリンスタジアムで開幕戦を迎え、4月29日、仙台で地元開幕戦を迎えました。選手会長の嶋(基宏)が『絶対に見せましょう、東北の底力を』とスピーチし、監督、コーチ、選手全員で野球を通じて勇気づけ、復興に貢献しようと誓いました。 でも僕自身は、気負いすぎて空回りしてしまった部分や怪我の影響もあって、ファンの期待には応えられなかった。『プレーで勇気づけたい』『喜んでもらいたい』と思い、しっかり準備はしてきたつもりでしたが戦力になれず、厳しい野次も浴びました。 2シーズン楽天でプレーして、ヤクルトに移籍してからも当時の悔しさ、『いつか見返したい』という思いは残ったままでした。やり残した気持ちがある中でヤクルトから戦力外を告げられたとき、福島に独立リーグ球団を設立した運営会社から『野球を通じて福島復興に協力してほしい』と話をいただきました。『震災から立ち上がり懸命に生きる福島県民の希望の光に』と言われ、その言葉に強く共感して『自分でよければ』とむしろ感謝をして要請を受けました」