台東区の4歳児中毒死事件に思う。家庭内でスケープゴートにされる子ども。虐待死を防ぐために必要な支援と、きょうだいのケアを願う
◆電話では虐待被害の状況は掴めない 冒頭に記した美輝ちゃんの事件に話を戻す。母親の志保容疑者は、美輝ちゃんの出産直前の2018年12月に、「精神的に不安定で支援が必要な特定妊婦」と児相に判断されていた。産後2ヵ月で衣類に火を付けた件を鑑みても、志保容疑者に長期的ケアが必要だったのは明白である。 2022年9月から11月にかけては、美輝ちゃんの右頬に青たん、左目脇に黄色い痣など、複数の外傷が保育所側から報告されている。家庭訪問で志保容疑者は対応を拒否しており、父親の健一容疑者が電話で「問題はない」と述べていたという。 虐待被害当事者の感覚から言わせてもらえれば、「電話」のみで被害状況を知ることは不可能だ。大人は多弁で、さらりと嘘をつく。子どもに恐怖を植えつけ、「転んだと言え」「問題はないと言え」と強いるケースも多い。被害を訴えて一時的に保護されたとしても、家庭に戻されれば、さらに酷い目に遭うかもしれない。その可能性がゼロではない以上、大概の子どもは口をつぐむ。 目の動き、話し方、挙動、衣服の状態、身体の発達、親を見る子どもの視線、子どもを見る親の目線、室内の状況。それらは、電話ではうかがい知れない。本件において、児相だけに責任を覆い被せるのではなく、児相が持つ法的効力の見直しなど、問題の根本に向き合う必要がある。 精神的に不安定な人=危険な人、という誤認は避けたい。ただ、各人の症状や状況によって、適切な支援が必要な人はいる。志保容疑者が、健一容疑者が、なぜ一線を超えてしまったのか。背景を知ることが、新たな被害を減らす一助になるかもしれない。だが、美輝ちゃんの人生は、「誰かを救うための人柱」ではなかったはずだ。美輝ちゃんは、生きたかったはずだ。愛されたかったはずだ。そのことを、私たち大人は決して忘れてはならない。
◆きょうだいたちのケアを最優先に 美輝ちゃんのきょうだい2人は、おそらく今後両親と生活を共にすることはないだろう。だが、だからといって「助かってよかったね」と安易に言える状況ではない。きょうだいの虐待被害、ましてや殺人にまで及んだ両親の凶行は、子どもたちに深い傷を残す。心的外傷のケアは、早ければ早いほど予後が良いといわれている。逆に、ケアを後回しにすればするほど後遺症は重く長く、心身にのしかかる。 虐待に限らず、何らかの暴力(暴言含む)を間近で見てきた者は、暴力を強いられてきた側と同程度のトラウマを抱えることが医学的にも証明されている。最新版のDSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)-5では、「事件を直接体験した人と、跳ね返りによってそれを体験した近親者を同等に扱うべきだ」としている。 弟の性虐待被害を知りながら、押し黙ることを強いられてきた代理受傷者の告発『ファミリア・グランデ』(カミーユ・クシュネル/柏書房)において、著者は次のように述べている。 “第三学年のとき、わたしは弟を見捨てる。そのことをわたしは忘れていない。” 子どもが子どもを守るなんて、実際には不可能だ。だが、代理受傷者の多くは自罰的感情に苛まれ、それゆえに心身の調和を崩すことも稀ではない。私が知らなかっただけで、姉や兄も両親に対し何らかの怯えを抱いていた可能性は否めない。同じく、美輝ちゃんのきょうだいたちも、不必要に己を責める危険性が高いといえよう。彼らの未来が守られるよう、報道のあり方を含めて、彼らの周りにいる大人たちは細心の注意を払い、何よりも子どもの心を守る方向に舵を切ってほしい。 失われた命はかえってこない。美輝ちゃんの未来は、残酷かつ理不尽な形で奪われた。同じ悲しみを繰り返さないために、問題の表面ではなく、国をあげて虐待問題の根本に向き合ってほしい。 学生時代、父は何度も私の首を絞めた。私が今も生きているのは、ただ運が良かっただけに過ぎない。密室の家庭内において、子どもの安否が“運”の要素で定まる社会であってほしくない。子どものSOSを拾うと同時に、大人側のSOSをも真摯に拾える社会こそが、被害を防ぐ最短ルートであるように思う。
碧月はる