台東区の4歳児中毒死事件に思う。家庭内でスケープゴートにされる子ども。虐待死を防ぐために必要な支援と、きょうだいのケアを願う
◆母が強いたダブルバインド 単純な折檻よりも私の心を砕いたのは、母によるダブルバインドであった。ダブルバインドとは、「二重拘束」を意味する。職場などで「わからないことがあれば聞いてね」と言うくせに、いざ質問すると「自分で考えなさい」と叱責する上司はさして珍しくないだろう。これが、ダブルバインドである。 母は私に100点の結果を求めたが、いざ100点を取ると「子どもらしくない」と突き放した。また、常に「状況を読め」と強いるのに、「周りの空気ばかり読んで気味が悪い」と言い放った。子どもらしく天真爛漫であることを許されるのは姉と兄のみで、私はどちらも許されなかった。子どもらしくあっても、完璧な結果を出しても、母は私を忌み嫌った。二重に拘束された心は行き場を失い、やがて私は「何をしてもダメなんだ」と思うようになった。 子どもだった私は、それでも母に愛されることを望んだ。時折気紛れに見せる優しさにすがり、それこそが母の本心なのだと信じることで己を保っていた。でも、そんなものはただの虚像だった。父が私に性的虐待を強いていることに気づきながらも、母は私を助けてはくれなかった。それどころか私への憎しみを募らせていく彼女の姿は、母ではなくただの“女”だった。 姉もいたのに、父がなぜ私だけを性的欲求の捌け口に選んだのかはわからない。ただ、私を虐げることで彼らの嗜虐心は満たされ、その上でしか成り立たない形があったのだろう。 “わたし”という人間をゴミ箱にして、日頃の鬱憤をすべて吐き出す。そうすることでバランスを保っていた我が家は、外側からは「ごく一般的な家庭」に見えていたはずだ。 なぜ、私だったのか。その明確な答えがわからないまま、私は混乱と恐怖の只中で右往左往していた。ただ一つだけはっきりいえるのは、両親がさまざまな問題を抱えていたことである。
◆両親が抱えていた心の闇 私の父は、アルコール依存症を患っていた。どうにか会社には行っていたものの、時には朝から飲酒した状態で出勤する始末であった。父の父、私の祖父に当たる人もまた、アルコール依存症だった。祖父は私が1歳の頃に他界したため、記憶にはない。だが、父は悪酔いするたびに自分の不遇を吐露していた。 飲み屋で酔い潰れた父親を迎えに行っては、担いで帰る日々。当時学生だった父に対し、周囲の大人は、酔い潰れて迷惑をかけている本人ではなく、まだ子どもだった父を責めた。この時、父を責めるのではなく手を貸してくれる大人がいたら。「迷惑なんだよ!」と怒鳴るのではなく、「大丈夫か?」と声をかけてくれる人がいたなら、私の未来も少しは変わっていたのかもしれない。 母もまた、平穏とは言い難い幼少期を生きてきた。母の実家は貧しく、産後も祖母は農業の手を休める暇がなかった。祖父は兼業農家で平日昼間は家を留守にしており、祖母には頼れる親族もいなかった。そのため、赤ん坊だった母は、家の柱に紐で縛られた状態で放置されていた。授乳時間になると祖母が戻り、授乳をしてオムツを替えて畑に戻る。その繰り返しの日々にあって、母は「泣かない赤ん坊」になった。いわゆるサイレントベビーである。 「虐待は連鎖する」という言葉が嫌いだ。連鎖させまいと懸命に踏ん張る人たちの存在を、この言葉は置き去りにする。だが、悲しいことに私の両親は、連鎖の縛りから逃れられなかった。 両親からの長年にわたる虐待被害によって、私は解離性同一性障害を患った。40歳を過ぎた現在も、何らかの負荷がかかると人格交代やフラッシュバックの発作が起こる。両親を許せる日は、きっとこない。それでも、まだ子どもだった彼らを助けてほしかったと、そう思う気持ちは否定できない。