「尾張憎し」の執念が御三卿を作らせたのか 御三家から初の将軍徳川吉宗の治世と和歌山城
目安箱を設置、カギを自分で管理
財政再建を柱に質素倹約をすすめ、年貢の強化などが行われました。特に注目されたのが目安箱の設置でした。しかも吉宗は目安箱のカギを自分で管理していたといいます。都合の悪いことは将軍の耳に入らないということをよく知っていたのだと思います。 目安箱の投書で生まれたのが、小石川養生所です。貧乏で医者に行けない人々の救済のために作られた医療施設で、投書をしたのが黒澤映画にもなった"赤ひげ"こと町医者の小川笙船(おがわしょうせん)でした。
大岡越前を重用
また町奉行や役人の改革を行い、南町奉行に"大岡越前"として知られる大岡忠相(おおおかただすけ)を登用します。大岡忠相の業績は多方面にわたりますが、よく知られているのは防火対策の強化で「いろは四十七組」を作ったことでしょう。 そのほかにも訴訟の円滑化を図るための「公事方御定書(くじがたおさだめがき)」の制定や大奥のリストラ、洋書輸入の解禁といったことも行いました。
尾張徳川家の7代藩主宗春が"質素倹約"に大反対
吉宗の治世で疑問が残るのは御三卿を作ったことでしょう。吉宗の血筋を引く田安家、一橋家、そして息子の9代将軍・家重の時に清水家ができます。これは将軍の跡取りを出す資格がこの三家にもあると決めたものです。将軍家の血を絶やすまいとするものですが、言い換えれば、御三家御三卿のうち四家が吉宗の血を引くことになります。 なぜこんなことをしたのかというと、尾張家から将軍を出させたくなかったからと考えられます。吉宗が将軍になった時のライバルは尾張徳川家の6代藩主・継友でした。その跡を継いだのが7代藩主の宗春です。 宗春は吉宗の質素倹約を基本とした改革には大反対で、尾張ではどんどんお金を使わせることで景気を良くしようという政策を行います。宗春がど派手な着物で遊郭に通い、大金を使うことは吉宗には許せなかったことでしょう。
吉宗の執念深さ
宗春の積極景気対策も尾張家の財政破綻で幕を下ろすと、すかさず吉宗は宗春に引退を命じます。さらに宗春が亡くなった後、その墓を金網で覆うといった仕打ちをしています。 しかも、遺言でそうさせているのです。吉宗の執念深さを考えると、尾張憎しの感情が御三卿を作らせたのかもしれませんね。 【和歌山城】 天正13(1585)年、豊臣秀吉の弟・秀長が紀ノ川と和歌川に挟まれた地に築城したのが始まり。縄張りは築城の名人・藤堂高虎で石垣には紀州特産の緑泥片石が野面積みで積まれている。慶長5(1600)年、浅野幸長が入城。和泉砂岩を使った切り込み接(はぎ)で石垣が作られた。元和5(1619)年、徳川頼宣が藩主になると、新たにこちらも和泉砂岩を使った切り込み接(はぎ)で石垣が作られ、3期にわたっての築城の歴史がわかる。弘化3(1846)年、火災によって天守は全焼。嘉永3(1850)年に再建されたが、昭和20(1945)年7月9日、米軍の空襲で再び焼失した。現在の天守は、昭和33(1958)年に再建された。 天守閣入城料:大人410円、小人200円 開館時間:9~17時30分 休館日:12月29~31日 住所:和歌山市一番丁3 電話:073ー422ー8979 【徳川吉宗】 とくがわ・よしむね。1684~1751年。徳川御三家紀州藩の第2代藩主・徳川光貞の4男に生まれる。第7代将軍・家継が亡くなると、第6代将軍・家宣の正室・天英院の指名で第8代将軍となる。御三家から将軍が選ばれたのは初めてだった。衰え始めた幕府権力の復興に努め、新田開発や公事方御定書の制定、目安箱など享保の改革を断行した。中興の祖とされるいっぽう、御三卿(田安、一橋、清水の三家)によって吉宗の血のつながるものを将軍にするシステムを作り、幕府財政を圧迫したという批判もある。 松平定知 (まつだいら・さだとも) 1944年、東京都生まれ。元NHK理事待遇アナウンサー。ニュース畑を十五年。そのほか「連想ゲーム」や「その時歴史が動いた」、「シリーズ世界遺産100」など。「NHKスペシャル」はキャスターやナレーションで100本以上担当。近年はTBSの「下町ロケット」のナレーションも。京都芸術大学教授、國學院大学客員教授。歴史に関する著書多数。徳川家康の異父弟である松平定勝が祖となる松平伊予松山藩久松松平家分家旗本の末裔でもある。 ※『一城一話55の物語 戦国の名将、敗将、女たちに学ぶ』(講談社ビーシー/講談社)から転載 ※トップ画像は、焼失前の正殿。「Webサイト 日本の城写真集」より。