戦国史上、最も謎が多いとされる戦い…「第四次川中島合戦」勃発の背景がスゴかった
信玄の西上野経略開始
信玄は、川中島での政虎との激戦で大きな損害を出したものの、上杉方への攻略の手を緩めなかった。一転して、今度は西上野の経略をすすめていった。この地域では、国くに峰領小幡家や岩下領の鎌原家から支援の要請をうけていて、それに応えるものであった。 永禄四年(一五六一)の十月一日に信玄は、西上野最西部に位置した松井田領(安中市)の諏方家一族を調略していて、西上野経略に着手するようになっている。同月五日の時点で、北条氏康・氏政父子はなお松山領に在陣を続けていた。信玄の西上野進軍は、それと連携することも視野におさめていたことだろう。そして十一月二日に、信玄は信濃佐久郡松原大明神に願文を捧げ、西上野西牧(下仁田町)・高田(富岡市)・諏方(松井田)各城の攻略を祈願している。その後に西上野に進軍したとみなされる。信玄本軍は内山峠口から進軍したが、別の一軍が鳥井峠口から岩下領に進軍した。 信玄の進軍を聞いて、政虎も十一月十六日までに上野に軍を進めてきた。同月十九日に、信玄はすでに西上野に進軍してきていて、その日に高田家を従属させ、翌日からは国峰城攻撃に向かうことにしている。国峰城は武田家・北条家に両属していた小幡憲重の本拠であったが、前年の政虎の侵攻をうけて、政虎に応じた一族・家中がでて、それらから追放されていた。なお政虎に応じた一族は、政虎から小幡家家督を認められて、次郎景高を名乗っていた(拙著『戦国期山内上杉氏の研究』)。そしてすぐに国峰城を攻略し、小幡憲重を復帰させたと思われる。
信玄と氏康・氏政の「共同軍事行動」
一方、松山領に在陣していた北条軍は、政虎の進軍をうけて北上したとみられ、十一月二十七日に、武蔵御嶽領生山(本庄市)で北条軍と上杉軍が合戦となり、北条軍が勝利した。これにより上杉軍は上野に後退したとみられ、それを北条軍が追撃した。そこに武田軍も合流した。そして十二月七日には、信玄と氏康・氏政は上杉方の上野倉賀野城を攻撃した。 これについて政虎は、同月九日に、下総古河城在番の長尾満景に送った書状で、「(武田)晴信(信玄)・(北条)氏康手を合わせ相働き候、(上杉)政虎備え手堅きに依り、敵の働き今日に至り一道無く候間、敗北の儀眼前に候」「此分は敵敗軍すべく候間、翌日に佐野に向かい政虎出馬すべく候」と、信玄と氏康が共同で軍事行動しているが、政虎の防備が堅固なため、敵軍は今日まで一つの成果もあげられず、敗北するのは確実だ、敵が敗退したら、その翌日に下野佐野(佐野市)に向けて進軍する、と述べている。実際にも信玄と氏康・氏政は、倉賀野城を攻略できず、ともに帰陣したと思われる。政虎は、佐野に進軍するといっていたものの、実際には上野に在陣を続け、そこで越年した。 こうして信玄による西上野経略が開始された。そしてそこで信玄と氏康・氏政は、共同して政虎と抗争することをみせた。政虎は関東での勢力を維持していくには、この信玄と氏康・氏政の両方と抗争しなくてはならない状況になった。この後において、信玄は西上野への経略をすすめ(詳しい経緯は拙著『戦国期東国の大名と国衆』参照)、氏康・氏政は武蔵の上杉方の経略をすすめていくのである。そしてそこでは、今回のような両家による共同の軍事行動が、しばしばみられるのであった。
黒田 基樹