「官学アカデミズムとは反りが合わなかった原田大六先生」 九大名誉教授・西谷正さんが振り返る在野貫いた考古学者
【聞き書き・考古の旅人】
平原(ひらばる)遺跡といえば原田大六先生(1917~85)が浮かびます。糸島地域で1917(大正6)年に生まれた先生は在野の考古学者として活躍され、平原遺跡の調査では調査主任を務められました。 九大名誉教授・西谷正さん 初めてお会いしたのは69年5月、僕は福岡県教育委員会に着任したばかりの時。京都大に留学中だった韓国・国立中央博物館の韓炳三(ハンビョンサム)先生を案内し、九州大の大学院生だった下條信行先生(現愛媛大名誉教授)、春成秀爾先生(現国立歴史民俗博物館名誉教授)も一緒でした。ところが官学アカデミズムとは反りが合わなかった大六先生から言葉荒く追い返されました。後日この話をしたら、覚えておられませんでしたが。 大六先生は九州の考古学の黎明(れいめい)期を引っ張った九州大名誉教授の中山平次郎博士(1871~1956)に戦後師事されていますが、大学で考古学を学ばれたわけではありません。 昔は考古学専門の仕事や職場は限られていました。九州大に考古学講座ができたのは58年。戦後しばらくは国立大学ではいわゆる旧7帝大(北海道大、東北大、東京大、名古屋大、京都大、大阪大、九州大)にしか考古学講座はなく、日本で考古学専任の大学教授なんてごくわずかでした。だから別の仕事をしながら在野で調査をするのが一般的でした。九州の考古学研究の基礎を築かれた森貞次郎先生(1910~98)も60歳まで高校の先生でした。 大六先生はもっぱら研究に専念され、生活は小学校教員の奥さまが支えておられました。そして49年に石ケ崎支石墓(福岡県糸島市三雲)を発見され、日本で初めて支石墓の学術的発掘をされました。こつこつ歩いて調査された結果です。先生がおられなかったら、糸島のいろんな遺跡は残っていなかったでしょう。 官学アカデミズムを嫌った大六先生ですが、僕には九州大に移った後も良くしてくれました。研究室によく来られていろいろお話し、本も頂きました。 ご一緒した最初の仕事は農地整備工事に伴う井原・三雲遺跡発掘調査指導委員会でしょうか。74年11月から翌年の3月まで。先生が委員長、僕は末席委員。現地を視察し大六先生が意見を述べておられる様子を何枚も写真に撮りました。2004年の伊都国歴史博物館の開館式の時、大六先生の奥さまがその写真を胸に入れて来ておられました。 先生の最大の功績は「伊都国」が全国共通で認識される礎を個人で築かれた、ということでしょうね。 (聞き手 古賀英毅)