出会いのきっかけはマンガ『違国日記』だった…叔母と姪の「特別な絆」を描いた「芥川賞候補作」
永遠に繰り返される愛の問い
作中で景子が何度も考えるのは、叔母がどれだけ自分を愛してくれていたか、ということについて。残された人生で叔母の欠片を拾い集めながら、それを取り出しては眺め、失くした痛みを自覚する日々を送る。義理の妹家族との食事会で、叔母と一緒に来ようと思っていた仙台の遺跡保存館で、弟の結婚式の最中のテーブルで、いつどこで何をしていても叔母の不在を思い知り、心が波立つ。 どんな幸せな空間にいたって「ゆき江ちゃんのいない世界で死ぬのはつまらない」という思いが胸中に去来し、生と死について考えるとき、彼女は「つまらなさ」を意識する。叔母が教えてくれたこと、ものを書く人生に仕向けられたこと、叔母が着彩した世界を生きながら、新しい色が塗られることもないまま褪せてゆく景色を眺める。自分にとって大きな存在であった叔母がいなくなったことで、5年経ってもまだ癒えぬ傷を抱えながら、景子は書く人生を選んだ。 弟の結婚式の披露宴の最中に景子は、もし5年前に死んだのが叔母でなく自分だったとしても、叔母は間違いなく「書く」ことを選んでいただろうと推察する。きっと叔母は、生前の自分が書いた膨大な言葉を拾い集めるだろうし、そしてそれを読むほどに募るであろう後悔を慰めてくれるのは「書くこと以外にありえない」と、景子は想像する。 そんな想像の中でさえも、傷ついた心を癒やす手立てが「書くこと以外にありえない」のだとしたら、やっぱり叔母は景子の生きるよすがを予見していたと言えるし、「書くこと」が血の繫がった姪と自分を繫ぐ糸のようなものとなり、その糸がやがて、ひねくれ者の姪を支えるための命綱にもなり得ると信じていたとも言える。 自分のなかに積もってゆく苦悩や後悔を「書くこと」に投影し、それが世間で評価されて生活を支え、家族の喜びも連れてくる……そのすべてがゆき江ちゃんの仕掛けた物語であり、誰よりも景子を見つめていた証左でもある。 「自分がどれほど愛されていたか」と推し量る行為は、「自分がどれほど愛していたか」という事実を映す鏡でもある。それは、相手を知るほどに自分を知っていくような、永遠に繰り返される愛の問いなのだ。 景子は、その問いを巡らせながら、自分の心の在処を見つけ、少しずつ前進してゆく。ゆき江ちゃんが巧妙なやり口で都度ほのめかしてきた景子への愛は、いつしか彼女が自分の生きる道を照らす光へと姿を変えたのだった。『二十四五』では、その愛の記憶と記録が丁寧に紡がれ、読む者の息が止まるような煌めきを放っている。 景子の大学卒業の日を描いた『最高の任務』の終盤には、こう書かれている。「信じるということは、確率や意見、事実すらを向こうに回した本当らしさをこの目に映し続けることである」と。それは乗代氏の作品に通底する世界の美しさを描く推進力であり、切実な思いを抱えて生きる人たちへの優しい励ましなのだ。 「第172回芥川賞候補作!乗代雄介『二十四五』特別試し読み」では、本作の冒頭部分を試し読みいただけます。ぜひつづけてお読みください!
僕のマリ(文筆家)