香港のファストフード「飲茶」を「世界の美食」に高めた名店「添好運(ティム・ホー・ワン)」の口福
現代ビジネス「北京のランダムウォーカー」でお馴染みの中国ウォッチャー・近藤大介が、このたび新著『進撃の「ガチ中華」』を上梓しました。その発売を記念して、2022年10月からマネー現代で連載され、本書に収録された「快食エッセイ」の数々を、再掲載してご紹介します。食文化から民族的考察まで書き連ねた、近藤的激ウマ中華料理店探訪記をお楽しみください。 第16回は、世界で最も格安なミシュラン星付きレストラン「添好運」――。 【写真】『進撃のガチ中華』出版記念インタビュー「中華料理の神髄とは何か?」
リーマン・ショックで誕生した名店
昨年、還暦を迎えた香港人シェフの麦桂培(Mak Kuaipui ばく・けいばい)は、「香港のファストフード」を「世界の美食」に高めた男である。 風が吹けば桶屋が儲かるという諺があるが、きっかけは2008年秋のリーマン・ショック(アメリカ発の世界的金融危機)だった。 15歳で「点心師」(香港のデザート専門コック)となり、当時45歳だった麦桂培は、香港のフォーシーズンズホテルにある広東料理の名店「龍景軒」で、飲茶(ヤムチャ)などを提供するデザート部門長を務めていた。そして名うての「点心師」麦桂培らの努力の甲斐あって、この年の年末に、「龍景軒」は悲願だった2009年「香港マカオ版ミシュランガイド」で、最高位の三ッ星を獲得したのだった。 だが、「アジアの金融センター」である香港は、リーマン・ショックの影響で、不況の嵐に見舞われた。当然ながら、香港随一の高級店「龍景軒」の客足も途絶えた。 そんな折、麦はある光景を目にした。不況の嵐によって、アジアで最も高いと言われた香港の土地も暴落しだしたのだ。そして、ビクトリア湾にほど近い旺角(モンコック)の広華街にある一角が空いたという消息が入った――。 中国では、俗に「乱世出英雄」(乱世に英雄が出る)と言う。麦桂培は不況の真っただ中で、フォーシーズンズホテルの高給と名誉ある地位におさらばした。そして広華街の狭いスペースを、月額3万8000香港ドル(約70万円)で借り受けた。 こうして2009年3月、長く夢を抱いていた自分の店「添好運(ティム・ホー・ワン)点心専門店」をオープンさせたのである。主食の「添え物」である「点心」(デザート)で運を好くするという、いかにもリーマン・ショックの最中(さなか)ならではのネーミングだ。 飲茶は、典型的な香港のファストフードである。いくら不況とはいえ、会社員でも学生でも食べられる。しかも、香港島のセントラル(中環)の三ッ星シェフが、ビクトリア湾を越えて九竜半島の下町に「降りてきた」のだ。 「即叫即蒸」(すぐに頼めてすぐに蒸す)をスローガンにした「添好運」は、たちまち「行列の絶えない店」となった。750皿を売り上げた日もあった。 その結果、2010年の「香港マカオ版ミシュランガイド」で、早くも一つ星を獲得。これが、「世界で最も格安なミシュラン星付きレストラン」と話題になった。確かに「龍景軒」なら一人5万円かかっても、「添好運」では500円で一皿食べて帰ることもできる。まさにリーマン・ショックの風が吹いて、飲茶屋が儲かったのである。