昭和24年生まれの私 元プロボクサー、ガッツ石松さん「15歳で上京、母の千円札は今も」 プレイバック「昭和100年」
■村一番の貧乏だった いわゆる「団塊の世代」でね。子供の頃は、皆、人を蹴落としても、はい上がろうとする。われ先にと。そういう時代だったじゃないですか。 【写真】昭和45年、世界ライト級王座への初挑戦が決まり、ヨネクラジムで練習に励むガッツ石松さん 俺も無我夢中で生きてきた。とにかく、今日食べられればいい。WBC世界ライト級のチャンピオンになって5度防衛できたけど、「あしたはあしたの風が吹く」と、目の前のことを必死でやってきた。 栃木県の清洲村(後の粟野町、現在の鹿沼市の一部)で生まれたんだ。村のはずれの家でね。一番の貧乏だった。4人きょうだいの次男坊。もちろん、テレビとかないし、ラジオは金持ちのヤツが持っていたぐらいだ。 ■グラブがないから代打だけ 中学で野球部に入った。隣町の中学にプロになった五月女(さおとめ)豊(後の阪神、大洋など)というすごいピッチャーがいた。試合に代打で出た俺は、振り遅れたけど五月女からライト前にヒットを打った。プロ野球選手になろうかとも思ったよ。でもな、野球というのは金持ちのお坊ちゃんの遊びだね。貧乏人はグラブ、バットも買えない。俺はグラブがなかったから代打しかやらせてもらえなかったよ。 ちょうど、ファイティング原田さんが注目されていた頃で、憧れたね。プロボクサーになろうと、中学を卒業して、すぐに上京したんだ。15歳。家を出るとき、おふくろから聖徳太子の千円札をもらった。中学時代にアルバイトをしていて、家計の足しにとおふくろにお金を渡していた。それを使わずに、ためといたんだね。今でもその千円札は大事に持っているよ。 ■地上波ゴールデンから消えたボクシング 最初は東京・五反田のネジ工場で働いていたんだけど、辞めて大塚にあるヨネクラジムに入った。ファイトマネーは5千円。そこから、月謝、経費などを引かれて、手取りは3300円しかない。試合は年に何回もあるわけではないから、バイトが〝本職〟。アイスクリーム屋、弁当屋。腹が減って、よくつまみ食いをしていたな。 「ガッツのあるボクサーに」という意味で「ガッツ石松」のリングネームをジムからもらって、忘れもしない昭和49年4月11日。3度目の挑戦で世界チャンピオンに。「チャンピオンになったぞー」と雄たけびを上げた。その写真が翌日の新聞に載り、「ガッツポーズ」と名付けられるようになった。4月11日は今でも「ガッツポーズの日」だ。ファイトマネーで雨漏りするオンボロの実家を修理してやったよ。