日本人が見過ごす「精神科の闇」…なぜイタリアは精神科病院を全廃できたのか?有名カリスマ精神科医が起こした「大革命」
「精神病棟は治療の場にならない」
大熊氏によると、バザーリアの考えは以下のように要約できる。 人間を鉄格子の部屋に押し込めることを正当化する精神状態など、本来ない。精神病者による暴力は、院内での抑圧で引き起こされた結果であり、人間としての反応なのである。 つまり、それは精神病院が引き起こしているものであり、精神病院を廃止して人間的存在たりうる温かい状況で対話できれば、精神病者の暴力はなくなるのだ。 改革の手始めに、ガザーリアは自分の考えに賛同してくれる精神科医や精神科の看護師、臨床心理士などの同志を集めた。その後、精神病院の病床数を減らして、できるだけ入院させずに普通に外で生活させるような仕組みの構築を目指した。 当時約800人の入院患者がいたが、バザーリアは猛烈な勢いで退院させていった。 「1963年から68年までの5年間で入院患者を300人にまで減らし、家族のもとに帰れない人には住居を用意しました。300人のうち、医療が必要ない人たちを『オスピテ』(イタリア語でお客という意味)と呼び、完全な自由と食・住を保証し、入院者と区別したのです。これはのちにイタリア全土でも採用されました」
重病でも在宅治療が可能だと実証
しかし、マニコミオを管理するゴリツィア県当局は、患者の住居をつくること、精神保健センターを新設することに消極的だった。そのタイミングで、外泊した男性が妻の不貞を疑って妻を殴り殺すという不幸な事件が起きた。 「『バザーリアの思想が事件を誘発した』という理屈で、彼も裁判で刑事被告席に立たされるのです。無罪判決で終わったものの、院長を辞職することになったのが1969年のことでした」 バザーリアはロンバルディア州パルマ県立病院の院長になるが、職員組合と衝突する。そこへトリエステ県知事ミケーレ・ザネッティが現れ、トリエステ県立サン・ジョヴァンニ病院の改革をバザーリアに依頼する。バザーリアは、「カネは出すが口は出さない」を条件に、この申し出を受け、ここからトリエステの歴史が始まるのだ。 「当時の諸外国は、社会改革を求める若者たちが運動を起こした時期でした。それは日本にも飛び火し、東大・安田講堂占拠などで大学教育が1年間マヒするような事態にもなります。バザーリアはこの若者たちのエネルギーを活用します。精神病院の色に染まった医者の代わりに研修医を採用して、『自由こそ治療だ!』をスローガンに精神病院の大改革に乗り出します。彼は当時のヨーロッパでは、チェ・ゲバラに匹敵するほどの有名人でした」 それまで精神病棟への収容が中心だった医療システムを、地域精神保健サービス網に切り替えてゆく。ある数の入院者を外に出すと、それに見合う職員も外に出す、といった具合だ。1975年ごろには、精神科病院を全廃できる見通しが立つほどにまで改革は進んだ。 「注目すべきなのは、症状が重い精神疾患の人々でさえも在宅で支えられることを実証した点です。1978年、政治も動き、イタリアの国会は精神病院を全廃し、地域の精神保健センターに全面転換を図ることを決めた精神保健法(180号法、別名バザーリア法)を制定しました」