【全文公開】「もう私はダメだな」…渡邊 渚 ″絶望から再生へ″「やりたいことはすべて挑戦する」
「仮病じゃないのか」
「本当は病気を早く公表したかった。ですが、さまざまな理由でできませんでした。公表できないことで、『仮病じゃないのか』などの誹謗中傷も受けた。ずっと葛藤に揺れていました」 顔が倍ほどに膨れ上がり…渡邊 渚 闘病中の姿とインタビューでの笑顔【本誌未掲載カット】 こう明かすのは元フジテレビアナウンサーの渡邊渚(27)だ。 渡邊は慶應義塾大学を卒業後、’20年にフジテレビに入社。『もしもツアーズ』『めざましテレビ』などの人気番組を担当していた。しかし、’23年7月に体調不良を理由に休養することが突然発表され、あらゆる憶測を呼んだ。 今年の8月末にはフジテレビを退社。10月1日には、自身のインスタグラムでPTSD(心的外傷後ストレス障害)を患(わずら)っていたことを公表している。 1年超に及ぶ闘病生活を経て、過去のトラウマと向き合い、克服し、病気を告白するに至ったのだ。渡邊がPTSDを発症したのは昨年6月、生命の危機を感じる衝撃的な出来事が生じたことが発端だった。 「詳しくは言えませんが、その時点で『あぁ、もう私はダメだな』と悟りました。通院しないと、死を選んでしまうと直感したんです。PTSDになった当初は、その出来事となかなか向き合うことができず、治療も進まなかった。今でもふとした時に思い出すことがあります」 原因は、突発的に起きたトラブルだったという。以降、渡邊はその幻影に苦しみ続けることになる。 「当日は雨の日でした。その時の気候や最寄り駅、匂い、食べ物を想起するとパニック発作が起こり、『過覚醒』というPTSDの症状で些細(ささい)な物音にも恐怖を感じるようになっていった。トラウマとなった食材を避けるためスーパーに行くこともできないし、食事もまともに喉(のど)を通らず、1ヵ月で5㎏体重が落ちました。ですが、私をPTSDにした人たちのせいで人生を奪われることが悔しくて……。なんとか立ち直ってやろう、とその場所に足を運んだり、もがき続けました」 アナウンサーの仕事は大好きで、天職だとすら考えていた。大きな仕事も決まり、公私共に順調。そんな最中(さなか)に起きた出来事だったのだ。渡邊は歩くこともままならず、医師からは入院を勧められ、長期休養をやむなくされた。 「最初は早く現場に戻りたかったんです。でも、仕事中に身体が震えてまっすぐ立てず、原稿も歪(ゆが)んで見えてしまって。昨年7月に入院してからも『過覚醒』や『光線過敏症』の症状が治まらず、もう再スタートを切ることは難しいと自覚しました。 会社にも関係するトラウマなので、仮に復帰できてもいつ再発するかわからなかった。警察に被害届を出すことも考えましたが、踏みとどまりました。私は頻繁にメモを残すようにしており、当時の日記には、『自分に正直に生きれば良かった』と書き記しています。 そんな経緯もあり、事件から数ヵ月後の昨年秋には会社を辞めることを覚悟していました。自分の大切にしていたことが、一瞬で手の平からこぼれ落ちていった。PTSDにならなければ、おそらくアナウンサーの仕事はずっと続けていたと思います」 ◆「考え直してくれ」 退院後も、しばらくは外を出歩くことすら難しい状態が続く。通院しても、回復に向かう兆(きざ)しは一向に見えなかった。 渡邊が実施した認知行動療法の特性上、まずはトラウマに向き合う必要があった。しかし、当時の出来事を思い出す度にフラッシュバックする。何度も頓挫し、治療も進まなかった。近しい同僚や家族にも打ち明けられなかったことで、社会からも隔離されている感覚に陥った。もうアナウンサーに戻ることはできない――。 渡邊は今年春にはフジテレビに対して、正式に退職の意向を告げた。 「初めは産業医を通して告げましたが、会社からは『考え直してくれ』と慰留されました。一向に話が進まず、弁護士や主治医、ソーシャルワーカーなどにも相談していました。私は治療のためにも、次の人生に向かうためにも、一刻も早く会社を辞める必要があると感じていたんです」 話し合いは平行線を辿(たど)るも、自分の意思を固めたことで少し心が楽になった。 6月からは専門治療である『持続エクスポージャー療法』を受け、一人でどこまで外出できるのかという実験を行い、効果が表れ始めた。そこでフジや主治医、担当の臨床医に許可を取り、パリ五輪の男子バレーボール観戦のため、8月上旬に現地を訪れることにした。高校時代にバレー部に所属し、バレー中継にも携わってきた渡邊にとって、どうしても現地で目に焼き付けたい光景だった。 しかし、偶然その様子が中継映像に映り込んだことで、ネット上で強い批判を受けることになる。 「言いわけに聞こえるかもしれませんが、4月にはすでに会社に退職の意思を示し、遅くても7月下旬には退職している予定でした。それが『番組編成の時期まで待ってほしい』という会社都合で遅れた。ここは伝えておきたくて。 治療の効果もあり、7月には少しずつパニック発作もコントロールできるようになっていました。治療の一環としても、実験的に遠出に挑戦する必要があった。 不快に思われた方には申しわけないですが、私自身は心の底から行ってよかったと思います。本当に感動的な体験で、パリで生きる希望をもらえ、明日への活力になったんです」 ◆渡邊渚に何の価値があるの? なぜ渡邊は批判にさらされながらも、SNSで自らの状況を報告し続けたのか。そこには、こんな思いが込められていた。 「家族や友達に伝えたら背負わせることになる、と心苦しさがあった。だから、SNSのほうが言いやすかったんです。精神疾患で苦しむ方の発信を見ると、同じような意見もありました。ネガティブな意見より、応援してくれる方の前向きな言葉が凄くエネルギーになった。社会から隔絶される不安を抱えていたなか、皆さんの温かい言葉で本当に救われました」 10月には専門治療が早期終了したことを報告。闘病生活を経て、「精神疾患に対しての理解を深める活動も行っていきたい」と渡邊は決意を込めて打ち明けた。 「完治という概念がないので、いつまた再発するかはわかりません。恐怖はありますが、今後の人生でもPTSDと付き合っていかなければいけない。ですがその一方で、私のようにここまで元気になれる場合もある。治療や正しい知識を持つことの大切さも肌で感じました。うつ病などと違って、PTSDはネット上でも体験談がほとんど出ていない。私が発信することで、苦しむ人々を少しでも勇気づけられたら嬉しいですね」 今後は依頼された心理学部の講義や講演などの課外活動にも積極的に挑戦していくつもりだ。現在の名刺の肩書は″フリーアナウンサー″だが、暫定的なもので固執するつもりはないという。 「約3年で辞めている私が、アナウンサーを名乗るのはおこがましいですから。母からは、『アナウンサーでない渡邊渚に何の価値があるの?』と言われましたが、それも真理だとは思う。それでも今は『自分がやりたいことはすべて挑戦していこう』と決めました。たぶんそれが一番幸せにつながるのではないかな、と。心理学の専門的な勉強もしていきたいですし、将来的には、生きづらさを感じている女性のための支援団体も立ち上げられたらいいな、と考えています」 取材中に何度も「もう後悔はしたくない」と繰り返した渡邊。その表情は力強く、晴れやかだった。 『FRIDAY』2024年11月15日号より
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