「40年前の誕生日プレートを母が実家の冷蔵庫に」『ジョブチューン』で人気のパティシエ・安食雄二 やんちゃだった幼少期と母の涙
調理師専門学校は1年制で、シュークリームと出合ったときから早々に就職先はケーキ屋さんにしようと決めていました。でも、職員室に行って「どこかお店を紹介してほしい」と製菓担当の先生にお願いしたら、「イヤだ」と速攻で断られてしまって。先生いわく、「紹介してもみんなすぐ辞めちゃうから紹介したくない」と。でも「先生頼むよ。ぼく、絶対辞めないから!」と粘ったら、先生が「そういえば、お前いつも製菓の授業のとき、一番前の席で聞いていたよな」と、気づいてくれたようです。
先生のつてで洋菓子協会から紹介されたのが、練馬の『ら・利す帆ん』でした。同じく洋菓子協会から紹介されて先に入店していたのが、辻口博啓さん(『モンサンクレール』シェフ)。ぼくの後に、神田広達さん(『ロートンヌ』シェフ)が入っています。 ── のちのスター・パティシエ3人が同時期に集まったとは!切磋琢磨はありましたか? 安食さん:もちろんありました。当時は寮住まいで、朝から晩まで一緒に過ごしていたので。寮といってもお店の屋根裏部屋で、小麦粉なんかが積んである倉庫みたいなスペースです。2段ベッドが3つ並んでいて、そこに6人で寝泊まりしてました。お店は夜10時まで営業していたので、文字通り朝から晩まで。まかないは3食、作業台の上で食べていましたね。店が終わった後も、ぼくら見習いはお菓子作りの練習です。スポンジにバタークリームをサンドして、チョコレートでコーティングして、その上にマジパンを飾って。それをお店に並べて、翌日誰のケーキが先に売れるか競い合うんです。本当に刺激し合う毎日でした。
■母に作ったバースデーケーキ「渡すと大泣きされて」 ── 工務店の跡取りとして将来を嘱望されていたそうですが、パティシエの道に進んだとき、ご両親はどんな反応を? 安食さん:ぼくがきちんと就職したので、親はすごく安心したようです。というのも、小学校、中学、高校とぼくは問題児で、親がしょっちゅう学校に呼び出されていたので。といっても、グレていたわけではないですよ。好奇心旺盛で、「これをやったら怒られるんじゃないか」と考えずにすぐ行動してしまう。学校から帰ると、母親は鏡台の前ですすり泣いているわ、父親には殴られるわで、もう大変でした。