“江戸のヒーロー火消”の活躍を伝えるかわら版 速報性と冴え渡る編集能力
火事速報の模範例「京都出火」
それでは、火事の被害状況を伝えるかわら版は、どのようにあるべきだったのだろうか。その問いに対する模範解答と言えるような一枚が、ここにある。
発行されたのは、先の「大坂出火類焼次第」と全く同じ1858(安政5)年。「京都出火」と題された本かわら版は、同年6月4日の昼頃に起きた大火災の被害状況について速報するものである。 この「京都出火」を見ると、当時の優れたかわら版屋が、極めて高い編集能力を持っていたことが判明する。まず、タイトルが記事の本文の文字に比して、ずっと大きく、線も太くて目にとまりやすい。即座に、火事に関するものと理解できる。そして、このタイトルを読めば、次は記事が気になるに違いない。現代の週刊誌が、電車の吊り広告で採用しているのと同じ方式だ。 記事本文も極めて簡潔だが、重要な事項、 翌日朝 辰ノ刻ニ 火鎮リ申候 つまり、「翌日の午前8時頃に鎮火した」ことなどは明記されている。被害地域の詳しい説明は、文字ではなく、地図の方に譲っているようだ。 そしてまた、この地図がわかりやすいのである。確かに、碁盤のような京都の町だからこそ、簡明に描けたという面もあるだろう。しかしそれにしても、丁寧に描かれた墨刷りの地図の上に、朱色で被害地域を刷るというのは、とても読者フレンドリーに思える。一目で、欲する情報が得られるからだ。また、当たり前と言えば当たり前だが、「東西南北」という方角をしっかり書いていることからも、可能な限り正確な情報を提供しようとするサービス精神が読み取れて、好感度が高い。 この時代になると、火事の被害状況を速報するかわら版は、「京都出火」のように、記事と地図を併用した上、多色刷りで作成されることが珍しくなくなっていた。かわら版の世界にも、デザインや体裁の流行は確実に存在する。当時のかわら版屋が、他人が作ったかわら版も、しっかりチェックしていたことの証左と言えるだろう。 仲間と激しく競っていたのは、勇ましい町火消だけではない。かわら版屋だって、常に同業者と切磋琢磨していた。育ち始めたジャーナリスト精神と、厳しい市場原理が、かわら版というメディアを鍛えたのである。 (大阪学院大学 経済学部 准教授 森田健司)