“江戸のヒーロー火消”の活躍を伝えるかわら版 速報性と冴え渡る編集能力
町を一瞬にして飲み込んでしまう火災。一刻も早く鎮火させ被害を最小限にとどめ、人命を救うため灼熱の炎と闘う「火消」は今も昔も頼りになるヒーローです。 時代劇にも登場する、威勢のいい男気あふれる「町火消」は、当時の憧れの職業の上位だったとも言われます。しかし、カッコいいヒーローの活躍が江戸の人々に伝えられ、そして今の世にも語り継がれたその陰に、かわら版がありました。江戸時代の火事とはどのような被害をもたらし、火消たちはどのようにして大火に立ち向かっていったのでしょうか? 人々が気になる鎮火の速報や火事の被害状況をよりわかりやすく伝えるために編集された見応え、読み応え十分のかわら版について、大阪学院大学、准教授の森田健司さんが解説します。
江戸のヒーロー「町火消」
江戸の町は、とにかくよく燃え、よく焼けた。その理由は、二つある。 まずは、建物が木造だったこと。そしてもう一つは、人口が集中し、住宅が過密だったことである。木造住宅が密集していた江戸の町は、一度火が付くと瞬く間に類焼し、手が付けられなくなったと伝えられる。 この状況を前にして、幕府や町民はただ手をこまねいていた訳ではない。江戸初期には、武士方の火消組織が活躍した。初めに組織されたのが「大名火消」で、1643(寛永20)年のことだった。しかし彼らが、1657(明暦3)年の大火災、いわゆる「明暦の大火」に十分対応できなかったことから、翌年、新たな組織「定火消(じょうびけし)」が作られている。 時代劇でよく目にする火消は、「町火消(まちびけし)」と呼ばれるもので、やはり「明暦の大火」を教訓に作られた、町民による自発的な消防組織がそのルーツとされる。様々な改革を経て、彼らが有名な「いろは四十七組」として編成されるのは、1720(享保5)年のこと。かの町奉行・大岡越前守忠相(1677~1751年)の主導によるものだった。 火事が起きると、勇ましい掛け声を発しながら現場に走る町火消は、江戸っ子たちの憧れだった。江戸を代表する粋な三つの職業、俗に言う「江戸の三男」とは、「与力、相撲に火消の頭(=町火消の組頭)」である。町火消は、まさに江戸のヒーローなのだ。 なお、江戸時代の消火活動は、放水が中心の現在とは大いに違う。大団扇で火の方向を変えたり、龍吐水で火の勢いを僅かに弱めたりもしたが、基本は「建物を破壊することで火を食い止める」というものだった。いわゆる、「破壊消防」である。 纏(まとい)持ちが火消口と定めた建物の屋根に上り、纏を高く上げれば、そこから風下にある建物は鳶口(とびぐち)や刺又によって徹底的に破壊されたのである。現在使われている消防署の地図記号が刺又なのは、このことにちなんでいる。 冒頭に掲載したかわら版は、彼ら町火消の勇姿が描かれたものである。纏からして、左から順に、一番組い組、よ組、は組、に組、万組だとわかる。 描かれた火消たちは必死の形相で駆けているようだが、彼らには、火を消す以外にも重要なことがあった。それは、「現場に一番乗りすること」である。どの組が一番に火消口を確保し、纏を上げるかで喧嘩になることも頻繁にあった。有名な「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉は、ここから来たという説すらある。