憧れの古き良き日本 自国文化を卑下する明治日本に外国人が驚きあきれる
明治期、日本にやってきた外国人たちは、自国の文化や風俗のあまりの違いにしばしば驚きました。一瞬眉をひそめて、嫌悪するもののやがて興味を抱き、それが愛着へと変わっていくことがありました。外国人観光客のお土産としてつくられた彩色古写真には、当時の売れ筋を探れば、彼らの日本文化や風俗に対する関心が手に取るようにわかります。 それでも、近代化を推し進めようと躍起になる明治政府。政府が目指した新しい日本とはどのようなものだったのでしょうか? そして当時の日本を愛した外国人たちは、変わりゆくこの国にどのような言葉を残したのでしょうか? 大阪学院大学経済学部教授 森田健司さんが解説します。
まるでアメリカのような横浜
1875(明治8)年8月3日、あるアメリカ人家族が横浜港に到着した。家族の構成は、夫妻に長男、長女、次女の5人。このとき、14歳だった長女のクララは、初めて目にした横浜港の様子を次のように日記に書いた。 横浜湾はいろいろな国の船でいっぱいで、アメリカのどこかの港のようだった。ヨーロッパやアメリカなど、あらゆる地域から遠洋汽船や帆船が来ていた。そして白いポーチのある館、ホテル、海軍造船所といったロマンチックな背景を緑の丘が引き立てて、港は大変印象的な一枚の絵になっていた。 ― クララ・ホイットニー著、一又民子訳『クララの明治日記(上)』(中公文庫) 14歳とは思えない達者な文章である。当時の横浜港の雰囲気が、見事に記録されている。そして、最も注目すべきは「アメリカのどこかの港のようだった」の一節だろう。これを、アメリカからきたアメリカ人が書いているのである。 横浜港の開港は、1859(安政6)年。クララが見た横浜港は、それから16年後のものである。このわずか16年で、半農半漁だった横浜村は、アメリカの港町と見紛うほどの賑わいになっていた。様々な国から船がやってきて、外国人が宿泊できるホテルが立ち並び、近くには造船所まである。8年前まで江戸時代だったとは、とても思えない変容振りである。 初めに示した手彩色絵葉書は、明治時代の後期に発行されたものだが、使用された写真自体は明治時代の中期に撮影されている。右側に写る威風堂々とした建物は、「横浜グランドホテル」である。1873(明治6)年の開業なので、クララも間違いなく目にしたことだろう。 写真の左の方には、背の高い電信柱も写っており、急激に近代化が遂行されていたことがよくわかる。なお、日本の電信の歴史は、1869(明治2)年の「東京―横浜間」から始まった。外国人が数多く利用する横浜は、いつも時代の最先端にあったのである。