憧れの古き良き日本 自国文化を卑下する明治日本に外国人が驚きあきれる
東京違式かい違条例で「文明国」へ
本連載における前回の記事で、明治初年に相撲が存続の危機を迎えていたことを取り上げた。そして、そのときに相撲が「裸に近い格好で行う競技」である点が大きな問題となっていたことにも触れた。 日本における裸の文化は、確かに西欧からやってきた人々の目には奇異に映ったようである。先ほどのクララも、横浜港で見た漁師の格好についてこう記している。 岸に近づくにつれ、たくさんの漁船が見えてきたが、それに乗っている人々は素裸だった<ショッキングだ!>。 ― 同書 外国人が日本の風俗にネガティブな印象を持つことは、明治政府にとって何より避けたいことだった。だから、相撲のような特定の文化だけではなく、一般庶民に対し「外国人から見て野蛮と思われるであろうこと」への禁令を出す。それが、違式かい違条例(いしきかいいじょうれい)と呼ばれる、現在で言う軽犯罪法だった。なお、違式とは「掟を背くもの」(故意の犯罪)、かい違とは「誤って掟を背くもの」(無意の犯罪)を意味する。 この条例は、まず1872(明治5)年に全54条の「東京違式かい違条例」として公布され、翌年には全国での施行が促されることになる。項目について、代表的なもの、興味深いものを紹介しておきたい。 ・違式・・・・・・「往来での裸体・肩脱ぎ・腿(もも)の露出」「混浴銭湯の経営」「春画の販売」「身体への刺繍(刺青)」「外国人の無届での宿泊」 ・かい違・・・・・・「往来での大小便」「狭い道での馬車」「婦人の断髪」「闘犬、あるいは犬を他人にけしかけること」 実際に検挙された人数も記しておこう。1876(明治9)年の東京において、違式の1位は「往来での肩脱ぎ(上着を脱ぐこと)」で2091名、かい違の1位は「往来での立小便」で4495名である。 違式かい違条例をはじめとした風俗の統制は、三府(東京・京都・大阪)と五港(函館・横浜・新潟・神戸・長崎)において特に強く実施された。言うまでもなく、外国人が多いからである。明治政府は、一貫して「外国人の目」を意識しつつ日本を改変していった。