「与力」「阿波座」地名の由来でひも解く大阪人の働き方
幕府御用瓦師の巨大製造工場
商都大坂はものづくりのまちでもあった。中央区瓦屋町。江戸時代、幕府の御用瓦師を務めていた寺島家の瓦製造現場だった。 寺島家が大坂の陣で徳川方に味方した功績により、徳川家康から拝領した瓦用の土採取場は数万坪に達していたという。多くの瓦師たちが土を採取し、大量の瓦を焼く作業に没頭。完成した瓦は東横堀川の水運を通じて出荷された。 瓦屋町からほど近い長堀川に面した島之内では、住友家が銅を精錬。製品の品質は世界最高水準で、一部はヨーロッパまで輸出されていた。
都心の田畑へ耕作に向かう通勤橋
大きな城下町の食生活を支える農民がいた。中央区の農人橋(のうにんばし)。豊臣秀吉が埋め立て造成を命じた当初の船場には、田畑が広がっていた。上町台地の農民が西側の船場の田畑を耕作するため渡った東横堀川の橋が、農人橋と名付けられた。 大坂の陣を経て、豊臣から徳川の時代へ。徳川政権が落城した大坂城の再築に乗り出す。新たに石垣を築くため膨大な量の石材が、西日本各地から海路を利用して集められる。最終的に城内の建築現場へ運び込むため、石材が荷揚げされたのが、農人橋付近だった。
秀吉がこよなく愛した太閤カフェ
武士、商人、工業技術者、農民。地名の由来を手掛かりに、主だった大阪人の仕事ぶりを振り返ってきたが、直接生産活動に関与しない文人たちのアトリエものぞいてみよう。 西成区の代表的地名「天下茶屋」(てんがじゃや)。旧紀州街道沿いに天下茶屋跡の顕彰碑が建つ(同区岸里東)。太閤秀吉が絶頂期、大坂城から住吉大社や堺へ足を伸ばす際、武野紹鴎(たけの・じょうおう)ゆかりの天神ノ森に立ち寄り、茶の湯を楽しんだ。 紹鴎は千利休の師匠にあたる茶人だった。太閤殿下の茶屋が転じて、いつしか「天下茶屋」になったという。江戸時代の文献には「殿下が立ち寄られた際の茶器や茶室が今も残る」と記されている。大坂には経済原則に基づかない浮世離れした文人好みという一面もあった。
人気陰陽師安倍晴明の生誕地
最後は意表をつくスペシャリストにご登場いただこう。西成区に隣接する阿倍野区の晴明通。陰陽師安倍晴明の名を刻む。 奈良時代、豪族の阿倍氏が、ご当地に進出。多数の寺院群を建立して勢力を拡大していく。やがて平安中期に晴明が誕生したと伝わる。 ミラクルパワーで京の政界に君臨し、今もファンタジーブームに乗って、若い世代の支持を集める人気陰陽師が、大阪生まれだったとは意外ではないか。晴明通を阪堺電軌上町線がのんびり通り過ぎていく。路面電車に揺られながら、晴明の育った阿倍野のまちを散策してみよう。 (文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)