社会の進歩が生み出す「筋肉のいらない環境」 その中で生物としての機能をどう維持するか
人間は環境を変えようとする
筋肉が太くなる現象は環境に対する適応である、と前回まで説明してきました。 そうした適応力はあらゆる生物に共通するものですが、脳が特別な進化をしてきた人間においては、その生物としてのあり方に異変が起こっている感も否めません。 科学の進歩は体に不都合な社会をつくり出した?【動画】 生物は基本的に環境に応じて自分の体を変化させてきましたが、圧倒的な知能を得た人間は、「環境のほうを変えてしまおう」という方向に向かっているように思えます。 たとえば、外気温が上がったら冷房をつけて部屋を冷やせばいいという発想です。もちろんこれはある程度まではいいのですが、今や「環境が変わったら自分を変えよう」という意識は人間にはなくなっているかもしれません。 しかし、その意識を完全に忘れてしまうのは危険であると私は思っています。というのも、生物の根本的な目的は「生きること」。脳を働かせることも、餌を求めて移動することも、生きるためです。筋肉もそのために発達してきたと考えるのが自然なのです。 極端な話、社会の進歩は「筋肉のいらない環境」をつくろうとしているのに等しいとも言えます(もちろん、それを意図しているわけではありませんが)。より便利に移動するために自動車やエレベーターをつくったり、より動かずに済むようにAIやロボットを進化させたりしてきたことが、その象徴です。 「便利で楽な社会」はある意味では「暮らしやすい良い社会」と言えますが、反面、「生存のための筋肉」がますます不要になってくる未来も予想されます。もし、生きるために動く必要がないような世の中になってしまうと、今のように発達した脳も不要になるかもしれません。そうなると、もはや生物としての自己矛盾に陥り、人間そのものが不要ではいかという疑問も浮上してくるでしょう。 もちろん社会生活が便利になっていくことは良いことですし、今さらそれを止めることも不可能でしょう。その一方で、単純にその恩恵を受けているだけでは危険である、という議論も必要ではないかと思いますが、そういうベクトルの意見はあまり表に出てきません。