古市憲寿が振り返る小倉智昭さんとの最後のひととき 「自宅へ行って政治の話題で盛り上がって…」
「昭和22年生まれは首を絞めても死なない」 かつて小倉智昭さん、高田純次さん、稲川淳二さんを指して、そんな軽口をたたかれていた時代があったという。その話を小倉さんから聞いたのは「とくダネ!」が終わってしばらくしてからのことだった。すでにがんとの闘病は始まっていたが、症状はだいぶ落ち着いていた時期だ。僕はひどく冷静に「きっと小倉さんに何かあった時、僕はこの話をエッセイに書くのだろう」と思いながら聞いていた。それくらい「何か」が訪れるのは、まだずっと先だと信じていた。
昨年10月にも小倉さんと会った。フジテレビの伊藤利尋アナウンサーたちと共に、初めて自宅へ行ってきたのだ。「腰が痛い」とは言っていたが、いつもと変わらない元気な小倉さんがいた。ちょうど選挙の時期だったので、まるで番組のように政治の話題や立候補する友人の話で盛り上がった。驚いたのはテーブルの上に唐揚げや串揚げなど油物ばかりが並んでいたこと。もちろんお酒もある。まるで大学生の宅飲みみたいだと思った。さすがに小倉さんは多少セーブしていたが、スタッフは気にせずバクバク揚げ物を食べていた。
地下のシアタールームでは「トップガン マーヴェリック」を観た。本当の映画館のような暗闇の中、実験機がマッハ10を出す瞬間の臨場感を思い出す。もう夜10時を回っていたので冒頭だけで再生を止めてしまったが、小倉さんは冗談みたいに「泊まっていけばいいのに」と言っていた。今から思うと、「ぜひ」と言えば、本当にみんなを泊めてくれたのかもしれない。 すっかり暗くなった玄関で、小倉さんと別れた。もちろん最後の言葉なんて覚えていない。それはこれからも何十回も繰り返されるだろう、ただの別れのあいさつになると思ったから。どうせまたすぐに会えると思ったから。 2024年、小倉さんとは『本音』という本を出すことができた。僕が聞き手となり、小倉さんには自由に話してもらった。体調が悪くなってから作ったので、もっと遺書のような内容になると思った。だが全く違った。どうしても許せない芸能人の話、昨今のジャニーズ問題についてなど、言いたい放題の内容だった。 それでも僕が一番心に残ったのは「老後はままならない」というメッセージ。小倉さんいわく「海外なんて体が言うこと聞くうちに行かないと。今、僕に海外行けったって行けるわけないもん。歩くのもきついしさ。ワインのおいしいとこ行ったって、自由に飲めないわけじゃない」。 きっと僕に限らず、頭の中で小倉さんの声を再生できるという人は多いと思う。二十数年にわたって朝の顔だったのだ。活字になった文章を読むだけでも、小倉さんの声が聞こえてくる気がする。ふとした時にもあの声、あの姿、あの立ち振る舞いを思い出すのだろう。その意味で、あの軽口は正しかったのかもしれない。 「昭和22年生まれは首を絞めても死なない」 古市憲寿(ふるいち・のりとし) 1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目され、メディアでも活躍。他の著書に『誰の味方でもありません』『平成くん、さようなら』『絶対に挫折しない日本史』など。 「週刊新潮」2025年1月2・9日号 掲載
新潮社