【陸上】インタビュー/今井正人 順大コーチとしてリスタート「選手がチャレンジする環境を作り、自分もチャレンジし続けたい」
基準は常に「自分の力を出し切れたか」 ――実業団17年間で、一番の財産は? 今井 人とのつながり、支え、縁ですね。トヨタ自動車九州の応援団は、選手に近い存在でいてくれます。結果を出している、出していないに関係なく、すごく応援してくれる。それは、会社の風土でもあります。僕には地元・福島県や大学でつながった方々、そして九州にも応援してくれる方がいる。その方々がまたつながって応援してくれていることに幸せを感じます。もう一つ、僕の競技人生は、失敗のほうが絶対多かったと思います。ですが、失敗はむしろ楽しみの一つでもありました。失敗したからダメではなく、できないことがわかったと学んでいましたし、できるようにするのにはどうしたらいいかを考えるのが楽しかった。その経験も財産です。 ――今井さんが思う「失敗」レースとは? 今井 結果はタイムや順位などの数字で表れますが、僕の基準は「自分の力が出し切れたか」でした。100%の力を出し切って負けたなら、失敗ではないし、仕方がないですが、40%ぐらいしか出せずに負けたら、自分の未熟さや調整不足と捉えていました。でも、それをどう受け止めて、60や70、100%にするにはどう練習するのか、生活していくかを考え、試すのが本当に楽しかったです。 ――18回のマラソンで一番「自分の力が出し切れたな」と感じたレースは? 今井 18回……。川内君(優輝、あいおいニッセイ同和損保)の6分の1ぐらいですね(笑)。力を出し切れたのは、セカンドベストを出した2022年の大阪マラソン。最後は落ち込みましたが、1年間積み上げてきたものは出し切れたな、という満足度は高かったです。引退前に、その感覚を味わえたのは相当大きな経験だったと思います。指導者になる上で、それを知っているか、知らないかでは伝え方や指導の幅がまるで違うと思います。 あのレースは最後だと思って臨みました。6位に入ってMGCの出場権を獲得したのでチャンスがつながりましたが、獲得しなかったら……という思いはありました。そもそもMGCを狙うというより、競技者としてどう出し切るかに集中していたので、35kmまですごくあっという間で、本当にマラソンが楽しいと思えたレースでした。実は大阪の1年前ぐらいに森下監督には「結果が出なかったら今季限りで……」と話しました。それを伝えた瞬間から、心も身体も軽くなり、自分の中で集中力が増しました。その1年間で自分の身体とどう向き合うべきか今まで以上にわかったし、先を見過ぎず、今を見ながら積み重ねていく大切さに気付けました。とても充実した1年間でした。 ――充実期で言えば、やはり北京世界選手権の代表権を獲得した15年頃でしょうか? 今井 そうですね。30歳前後は身体もしっかりできて、質の高い練習も継続できた時期でした。だからトラックも駅伝もマラソンも全部が好調でした。レースで言えば、2013年のニューヨークシティ・マラソン(2時間10分45秒/6位)と2014年の別府大分毎日マラソン(2時間9分30秒)はタイム的にまだまだでしたが、充実感がありました。翌年の東京マラソンで、生涯ベスト(当時日本歴代6位)の2時間7分39秒(7位)を出して、北京世界選手権の日本代表に選んでいただきましたが、あのレースの35km以降の落ち込みは力不足で悔しさしかありません。練習でも2時間6分台の手応えはあったし、35kmまでその走りができていたのに、最後にガクッと落ちて。満足できないレースにしてしまいました。 ――結果的に、大会1ヵ月前に髄膜炎を発症し、欠場を余儀なくされました。 今井 どこまでも持っていないと思いました。なんでここで? と、受け入れ難かったですね。時が経った今なら、差し引きができないことが原因だったと思います。東京マラソンの疲労をしっかり抜けないまま、トラックシーズンに入り、トラックでも結果を残さなくてはという力みが強くて、体調を壊しても思い切って休めませんでした。また、弱みを見せたくなかったので、頑張りすぎる自分がいて…。本当に未熟でした。 リオ五輪の選考レースがあったので、退院してからすぐ練習を再開しましたが、うまく目標を立てられず、集中力が低いまま走り続けていました。そのため、2016年の東京から2018年のびわ湖毎日までマラソンを4本走っていますが、その間の練習はこなすだけになっていましたし、目標が定まっていないので、試合でも集中力が途切れて、きついところで我慢できなかった。監督はそれを察知して、「半年間休もうか」と提案してくれました。僕もある程度の練習はできているのに結果が出ないのは、心や意識の問題と薄々感じていたので、ここで休まなかったら次はないと思い、思い切って休むことにしました。 ――その半年間はどのように過ごされましたか? 今井 疲労感を抜きつつ、最低限の体力維持のため、月曜日にロング走、金曜日にインターバル系を練習し、土日は完全休養日で気分転換に充てる生活を3ヵ月間送りました。同時に、「陸上を始めた頃、どういう思いで走っていたか振り返る時期にしよう」と、地元に帰ったり、中学生の時からお世話になっている治療院や宿に泊まって合宿させてもらったりしました。また、動き作りでお世話になっている北海道・旭川の病院を訪ね、身体の使い方を再度見直しました。いろいろな方と話すことでヒントがもらえ、自問自答する時間もたくさん取れました。自分がしたいことにチャレンジしたり、何のために走っているかに向き合えたりしたとてもいい時間でした。 ――その時間があったから、もう一度頑張ろうと思えたんですね。 今井 そうですね。走るのが楽しいと思えたのは大きかったです。2019年の東京マラソンはMGCの出場権を絶対取るという強い気持ちで走れましたし、その後も、この時に感じた思い(感覚)を引き出しながら、技術と組み合わせていきました。この時に休んでいなかったら、もっと早く引退していたかもしれないですね。 ――指導者としての道が始まりましたが、それとは別に今一番やりたいことがあれば教えてください。 今井 家族はこの12、13年間、僕中心の生活でした。子供たちに「遊びに行こう」と言われても「試合前や練習だからダメ」と断っていたので、思い切り遊んであげたいです。何よりも妻が一番頑張ってくれていたのでゆっくりさせてあげたいです。あとは、野球ですね。野球はずっと好きなままなので、中学の同級生に連絡して、「野球やろうぜ」って誘っています(笑)。 ◎いまい・まさと 1984年4月2日生まれ。1984年4月2日生まれ。福島・小高中→原町高→順大→トヨタ自動車九州。高校から本格的に陸上に取り組み、3年のインターハイ5000mは日本人2番手の5位を占めた。順大では箱根駅伝で大活躍。2年時に山上りの5区で驚異的な区間新記録を打ち立てて11人抜きを達成すると、3、4年時も5区で区間賞を獲得し、「山の神」と称された。2007年にトヨタ自動車九州入社後はマラソンを中心に取り組み、2015年東京で当時日本歴代6位の2時間7分39秒をマークし、同年の北京世界選手権代表に選出された。2019年、23年MGCも出場している。
田端慶子/月刊陸上競技