【陸上】インタビュー/今井正人 順大コーチとしてリスタート「選手がチャレンジする環境を作り、自分もチャレンジし続けたい」
「五輪で戦いたい」の重みを胸に挑戦
――ここまで長く第一線で活躍できたことについて、どのような思いでしょうか。 今井 長く選手を続けたい気持ちはありましたが、結果次第では実業団3年目ぐらいで(会社から)引導を渡されることもあり得ると思っていました。なので、「早く何かをつかまないと」と思っていました。実際、3年目に意識を変えたことで身体も変わり、成果も出始めました。その頃から実業団でも戦えると感じるようになりました。そこからは、1年1年が勝負だと思って頑張ってきました。僕の目標は、マラソンで五輪や世界選手権に出ること。「五輪で戦いたい」と宣言してトヨタ自動車九州に入ったので、長く続けることより、目標を成し遂げることに集中して取り組んできました。 ――3年目に「戦っていける」と感じた理由は? 今井 それまでは高校や大学で練習してきたことにこだわりすぎていましたが、3年目ぐらいに森下監督の考えをもっと汲み取ったり、近づこうと吸収するように意識を変えたりしました。そして、監督の考え方を受けて、自分がどう動くべきか考えるようになったら、徐々に心と身体がうまく噛み合い出しました。レース前半をハイペースで入り、中盤はしっかりペースを保ち、最後にもう一段階上げてスパートをかけられるのが実業団選手。入社当初はそれができない自分にもどかしさを感じましたし、誤魔化すため、過去に固執していました。 ――トヨタ自動車九州に入社したのは、1992年バルセロナ五輪のマラソンで銀メダルを取った森下監督の存在が大きいと語っていらっしゃいました。 今井 もちろん大きいですね。日本で一番、世界のマラソンに近い人が森下監督と尊敬していたので、どうしても超えたかったですし、学びたかった。森下監督に指導者として五輪を見てもらいたい、それを自分が実現したいとずっと思っていました。誰かに先に達成されるのは嫌でした。 ――森下監督は、どんな存在でしたか? 今井 僕の性格をよくわかっているので、押したり引いたりしながら声をかけてくれました。途中からかなり任せてもらえましたが、好き勝手にさせる訳ではなく、自主性を尊重しながらディスカッションも大切にしてくれました。情熱がある人なので、厳しい言葉をかけられたこともあります。2012年頃、マラソンを2、3本走ってロンドン五輪を目指そうかというとき、練習がうまくできなかったことがありました。その時の僕の取り組みを見て「五輪を舐めるんじゃないよ」と。その言葉で、自分が目指そうとしている五輪の重みがわかったし、これではいけないと気づきました。それは森下監督が発した言葉だから響きましたし、その後もずっと心に留めていました。 ――入社した当時(07年)はチーム内に、後に北京五輪(08年)マラソン金メダリストになるサムエル・ワンジルさん(故人)、ヘルシンキ世界選手権(05年)10000m代表の三津谷祐さんなど、世界を見据えた選手が何人もいましたよね。 今井 そうですね。トヨタ自動車九州陸上競技部が発足して5年目ぐらいのとき、大学生だった僕は合宿に参加させてもらいました。はっきり言って成熟していないチームで、賑やかな部分もありましたが、その分パワーもすごくて勢いを感じました。一人ひとりから「俺たちはこんなもんじゃないんだ」という思いが伝わってきて何より“やってやるぞ”感が刺激的でしたね。僕は東北人の気質で、性格的に少しずつ上がっていきたいタイプなので、勢いで一気に行く熱さが自分には足りないと思っていました。その点、九州には独特の熱さや勢いがある。それを自分が手に入れた時、どう変化するのか体感したいと思ったのも、トヨタ自動車九州を選んだ理由です。