1ヵ月に1冊も本を読まない人がこんなに多い時代に「心」はどうなっているのか?「他者を、物語を語り合う」小川洋子×東畑開人対談
一人でいることは「悪」なのか?
東畑:すばらしい。僕の今までの人生にはなかった体験です。ゼロではないけれど、そういう感じの友達関係というのはなかったです。むしろ恋人とか家族とかの方がありえそうな気がします、同じ本を読んで語り合うというのは。 小川:心底つながり合っている人同士を仲立ちしてくれるものとして、芸術は大事ですよね。子どもに対しても、たとえば思春期で共通の話題がないときに同じ本を読んでいたら、ただその本の話をするだけで言葉のやり取りができます。 東畑:おっしゃるとおりですね。本の内容について詳しく話し合わなくても、「あれ、めっちゃいいよね」とか、そういう次元でつながり合えると思います。 小川:「あの小説の中では、主人公が一番みじめだよね」とか「あの場面に出てきた料理はおいしそう」とか。全部、現実じゃない話なのに心が通じ合う。河合隼雄先生は、まだ言語を獲得していない子どもに箱庭療法をよくされていたそうですが、東畑さんはされないんですか。『雨の日の心理学 こころのケアがはじまったら』に箱庭は出てこないですよね。 東畑:大学院時代にはときどきやっていましたし、沖縄の病院にいたころも少しはやっていましたね。 小川:『居るのはつらいよ ケアとセラピーについての覚書』に書かれていた時期のことですね。 東畑:自分で作ったんですよ。木を買ってきて、箱を作り、砂を敷くんです。それから、おもちゃを集めたりもしていたんですけど、臨床的にあまり機能しなかったんです。というのも、物語を遊ぶような余裕がない、切実に目の前の出来事をどうサバイブするかというクライアントたちに対してのカウンセリングを多くしていたので、箱庭で内的なものを展開させるより、外の世界にどうやって立ち向かっていくかが問題だったんです。それで箱庭からはだんだん離れていってしまいました。この点、小川さんの小説は、内に向かっていきますよね。 小川:『耳に棲むもの』全5編を通しての主人公と言えるサラリーマンは、少年のころから、耳の中にドウケツエビと4人の音楽隊が棲んでいます。心がかき乱されて涙が出てきたときに、涙を音符にして音楽を鳴らして心を静めてくれるイマジナリーフレンドで、それは誰にも説明できないし説明する必要もない自分だけのものです。言葉が未発達で物語化できない少年時代に、何がその代わりになってくれるかというと、天井についている生き物のような染みだったり、あるいは耳の中に飼っている自分だけのエビとカルテットだったりするんじゃないかなと想像したんです。 東畑:サラリーマンのその感覚は、僕個人にとっても心理学全体にとっても、軽視されがちなものを思い出させてくれるような感がありました。臨床心理学ではここ20年くらい、外の世界の問題をどうやって処理していくかが重要な問題でした。それだけ社会が生きづらい、厳しいものになったからです。すると、他者とつながることが生き延びるためには大切で、一人になることは、どちらかというと悪いことだと捉えられてきたんです。 僕も、本を書くときはやっぱり人と人とのつながりが一番大事なんだと考えたし、臨床でもそう思ってやってきたんですけど、耳の中で自分のためだけの音楽が鳴っているとか、ドウケツエビが泳いでいるというようなきわめて個人的な世界への憧れを、大学に入ったころは持っていたことを思い出しました。『耳に棲むもの』を読んで、うまく感想が言葉にならないのは、内側の価値を語る言葉が貧しくなっていたからかもしれないです。 小川:自分の内側と向き合うのはしんどいことであって、外の世界に手っ取り早く単純で面白いことがあれば、そっちに行くほうが楽ですよね。スマホを開けば、いくらでも時間を潰せる。むしろ今の人は一人になることの難しさに直面していると思います。 東畑:本当にそうですね。 小川:どうやったら一人になれるか。全てを遮断して、村上春樹的に言えば井戸を掘って、自分の地下2階、3階に降りていけるか。まずは、その井戸の入り口が探せないという状況なのでしょう。別に探さなくても日々は流れていくから、本も売れなくなってきているんだと思います。