1ヵ月に1冊も本を読まない人がこんなに多い時代に「心」はどうなっているのか?「他者を、物語を語り合う」小川洋子×東畑開人対談
「物語」について考える文化のない時代を生きる
東畑:はじめまして。今日はお話をいろいろ伺おうと思って予習をしてきました。河合隼雄との対談集『生きるとは、自分の物語をつくること』は本当にすばらしかったです。その本を読んで感じたことで、今回の短編集『耳に棲むもの』にも通じるんですけど、この20年くらいで、物語について考える文化があっという間になくなってしまったように思うんです。物語についていろいろ話をすることが人の心を語ることでもあったのに、最近はそういう考え方がすっかりなくなってしまった。 小川:物語について他者と語り合う、ということには、そもそも結論がありません。明確な成果を求めないままに、ああでもない、こうでもないと、互いの心がさ迷う。このあいまいな揺らぎに耐えるだけの辛抱強さが、失われつつあるのかもしれません。文学は本来、職場でも学校でも家庭でもない場所で、人と人の心をつなげるものなんですね。だから、1ヵ月に1冊も本を読まないような生活をしていると、心はどうなってしまうのかなと不思議に思うことがあります。 東畑:『耳に棲むもの』を読ませていただいて、まずすばらしいと感じた上で、それをどう表現していいかわからない僕がいるんです。社会的なテーマを扱っていたりして、みんなが共有できる外の世界のことが書かれている小説についてはしゃべりやすいんですけど、『耳に棲むもの』はそういう話じゃないじゃないですか。耳の中という最も非社会的な世界の話なので、どう表現していいのか悩んでしまって。小川さんのお話を聞きながら考えればいいかなと思って、今日は参りました。 小川:いつも不思議なんですけど、いい小説すごい小説を読んでも、それを人に伝えようとして粗筋を説明し出すと途端につまらなくなっちゃうんです。たとえば川端康成の『掌の小説』に収録されている掌編はどれもすばらしいんですが「私はこれが好き。どんなお話かというと……」と説明し出すと、往々にして本文より長くなってしまったりする。小説のすばらしさは、本来、言葉では説明できないものなのでしょうね。 東畑:なるほど。 小川:「この小説、いいですよね」とうなずき合ったとき、お互いに何がいいのか確認し合うのは言葉でしかできないことだけれど、実はもっと深いところで共鳴し合っているんだと思います。賞の選考会でも「この作品はいい。二重丸をつけて絶対に推そう」と思っても、どこがいいか言葉でうまく説明できない。二重バツを付けた作品の悪口はいくらでも言えるんですけど(笑)、絶対に当選作にしたいという思いはなかなか伝えられなくて、自分でも情けないところなんです。 私は十五年間FMラジオで『Melodious Library』という番組をやっていたんです。「未来に残したい文学遺産」と思える小説を毎週一冊ずつ紹介する番組で、私を含めた開始当初からのメンバ15人は、15年間毎週一冊、同じ本を読み続けてきました。すると、何とも言えない深い人間関係が出来上がっていたんです。何か一言しゃべったら「そういうダメ男、田山花袋の『蒲団』に出てきたよね」と、わっと話が盛り上がって、一気に深い共感が生まれる。単なる仕事仲間を超えたレベルのつながりがあるんです。読むときは本と一対一ですけど、そうやって人と人の間で広がっていくのが、文学の本来のあり方なんです。