「高卒認定試験へ挑戦」「X上では大人びた言動で称賛」…。なぜ我々は「青年革命家ゆたぼん」の成長にこうも心動かされてしまうのか?
通過儀礼は、江戸時代に庶民の間に広がった髪や眉を剃る「元服」が分かりやすいが、共同体の内部の人々が、誕生から死に至るまでの節目で、次なる段階に進んだことを公認する一連のプロセスを指す。通常、分離(以前の状態ではなくなる)→過渡(どっちつかずの状態)→統合(新しい状態)の3段階で構成される。 その場合、この「テスト期間」は、まさに通過儀礼でいうところの過渡にあたるだろう。父親と一緒になってアンチとの闘いに明け暮れていたゆたぼんにとって、この時期こそが「テスト期間」であったのかもしれない。
「テスト期間」についてのモイヤーズとキャンベルのやりとりを見てみよう。 モイヤーズ 昔は神話が、巣立ちの時を知るのを助けてくれたのですね。 キャンベル 神話は物事を公式化して見せてくれます。例えば神話は、ある決まった年齢になったらおまえもおとなになるのだ、と教える。その年齢はまあ標準的なものでしょうーーが、現実的には、個人個人で大きく違います。大器晩成型の人は、あるところまで来るのが他人に比べて遅い。自分がどのあたりにいるのかは、自分で感じるしかない。(同上)
通過儀礼の視点から見れば、現代社会において、旅立ちの日を告知してくれる神話はもはやどこにもないが、「生きた教養小説としてのユーチューバー」は確かに存在している。「父殺し」のお手本をコンテンツとして提供してくれるのである。 ここで重要なのは、世間の価値観の代弁者のような父親と対峙するほうがシンプルで乗り越えやすいことだ。かえって、子どものアウトサイダー的な生き方を後押しする父親のほうが、その支配から逃れることは難しいかもしれない。
なぜなら、そこに疎外感を中心とする強い共犯関係が生まれるからだ。『モスキート・コースト』のアリーとチャーリーのように、自分たちに対する世間の偏見が共通の敵となり、社会に迎合している連中を一緒になってバカにする――そのサイクルが運命共同体的な意識を形作っていくのである。 かつて、ゆたぼんの「学校に行って洗脳されて思考停止ロボットになるな!」といった発言に批判が集まったが、「学校に行きたい子は行って、行きたくない子は行かんでいい」などの穏当な発言はあまり注目されず、義務教育を真っ向から否定する暴言として受け取られた。