投票参加は自動的に自分自身や社会の利益になるわけではない
◇「正しい答え」を知らない有権者の存在が、政治家を奮起させる要因に 「投票率を高めよう」という主張を行う裏にあるのは、投票とは良いものであるという前提でしょう。しかし、そもそも投票に参加することが、自分自身や社会のためになるのでしょうか。この問いは、私の研究テーマの1つです(※1)。ここでは、民主主義的な制度下における有権者が「自分たちにとって利益があると考えられる政策を、政府・政治家に実現させる」という目的を持っていると考えて、投票が持つ意味について考えてみましょう。 自分の求める政策を実現できる政治家を知っている、つまり誰に投票するべきかがわかっているなら、投票に行くことは有益でしょう。しかし、現実は誰に投票したら良いかわからないという人たちが一定数いるはずです。もしその人たちが「間違った答え」、つまり望む政策を実現できない政治家に投票してしまうと、その分、「正しい答え」である政治家が勝ちにくくなり、選挙結果が有権者にとって不利益な方向に動いてしまいます。すなわち、わからないのに投票参加するよりも、棄権した方が良い結果をもたらす場合もあるのです。他の人に任せた方がより良い判断ができると論理的に考え、棄権しているのだとしたら、棄権も立派な政治選択と言えます。 とはいえ棄権は、次善の策のように思えるかもしれません。それでは「正しい答え」を皆が知って投票が有益になるよう、有権者全員が政治への関心や知識を高めるのが理想なのでしょうか。この考えにも二つの論理的な懸念があります。 一つめは、「正しい答え」を知るために払う負担です。もともと政治に関心があり、情報の探し方を心得ている人にとっては負担にならないかもしれませんが、政治に普段親しみがない人が正しい答えを知ろうとすれば、時間的にはもちろん場合によっては金銭的なコストもかかります。先に述べた通り、選挙結果を正しい方向に導くために、有権者全員が「正しい答え」を知っている必要はありません。むしろ、全員に「正しい答え」にたどり着くことを強制するならば、そのコストが高い人もいるために、社会全体のウェルビーイングが低下してしまう事態も考えられる訳です。誰も政治について知らないという事態になればもちろん問題ですが、有権者全員が政治関心・知識を持っていなければならない、という社会も誰かを不幸せにしているといえるでしょう。 二つめは、政治家の行動ロジックです。極論ではありますが、すべての有権者に政治に対する高い関心と知識があるとしましょう。このような有権者は、当選したことのない候補者の能力はわからなくても、一度当選した人の能力はすぐに見抜けるとします。そうすると、能力が低い政治家は、一度当選しても次の選挙で必ず落ちることになります。となれば、自分の能力が低いとわかっている政治家は、一度当選したらお金だけもらって頑張らない、というのが最適解になってしまいます。次に選ばれないとわかっていると頑張れなくなるからです。ここで逆に、有権者の政治関心・知識が低く、一度当選した政治家の能力を完全に見抜くことができない状況を考えてみてください。すると、能力は低いけれども当選することができた政治家に、もう一度選ばれるチャンスが生まれます。「頑張れば再選確率が上がるかもしれない」という認識がモチベーションになり、政治に疎い人々に利益があるような努力や政策を行うインセンティブが生じるわけです。となれば、「正しい答え」を知らない有権者は、場合によっては政治家を頑張らせる起爆剤になるとも言えるでしょう。 上記の議論は、政治知識・投票の重要性を否定している訳ではありません。政治知識・関心が高い有権者が投票参加すれば、確かに選挙結果を「正しい」方向に導くことができます。ただし、知識・関心を高めるコストや、(能力の低い)政治家の行動ロジックを考慮すると、政治への関心・知識が低かったり、投票を棄権したりすることそれだけをもって、社会のためになっていないと結論づけるのは早すぎる、ということです。 ※1 Kato, Gento. 2020. “When Strategic Uninformed Abstention Improves Democratic Accountability” Journal of Theoretical Politics 32(3): 366-388.