稲盛和夫の“二刀流の経営”はいかに誕生したか? 「京セラフィロソフィ」「アメーバ経営」の原点に迫る
■ 「アメーバ経営」の原点となった「時間当り採算表」とは? また、この「人間として正しいこと」を追求する判断基準は、倫理的側面を備えている。例えば、ソロバン勘定で判断すれば大きく儲かる場合であっても、この判断基準に立てば、法に触れてはいけないのは当然ながら、お客さまや従業員そして社会のためにならない判断も回避することができる。 できたばかりの会社にとって、このあまりに倫理的な企業哲学は、売上や利益を増すことには直結しなかったが、経営者や社員の活動を逸脱や暴走を未然に防止する役目も果たすことになった。そして、そのことで社内外に京セラという企業に対する信頼感を醸成していった。結果として、それら信頼の集積がさらなる受注拡大と社内活性化を京セラにもたらした。 さらには、「人間として正しいこと」を追求する姿勢は、そのことを説く経営者自身の人格が高邁なレベルに達することを求める。「人間として正しい」判断を下すには、自らの心を高め続けなければならない。このことが、経営者としての稲盛自身の成長を促すとともに、その哲学を高度に磨き上げていく原動力となったのである。 稲盛は自ら人格を高めることに努め続けるとともに、会社が発展するに伴って増え続ける社員たちがその哲学を理解し、実践していけるように、「人間として正しいこと」を追求する考え方を整理し、体系化していった。その磨き上げた体系が今日、われわれが目にしている「京セラフィロソフィ」である。 1959年の創業以来、会社が発展を続ける中で、稲盛は多忙を極めた。研究開発や製造はもちろんのこと、営業でも第一線に立ち、受注・売上拡大に向けて陣頭指揮を執った。もちろん、組織が機能すべく、総務から経理まで管理面でも対応に努めなければならなかった。 1963年、京セラ創業から4年が経過し、売上は約4倍、従業員は約3倍に増えていた。経営は一人ではできない。稲盛は共に経営に携わる人材を希求した。 ちょうどその頃、さらなる受注拡大により、初めての自前工場を滋賀県蒲生町(現東近江市)に造ることになった。間借りの京都本社に設けられた創業以来の生産拠点と合わせ、二製造部門体制となった。 京都本社工場が開発・試作品を、滋賀新工場が量産品を主に担当した。開発・試作品は生産量は少ないが単価が高い。一方、量産品は生産量は多いが単価が低い。月に一度の生産会議でその実績をともに発表するが、両者は競い合うようにして業績伸長に努めた。 稲盛も両生産部門の責任者も、業容が異なる工場同士の経営実績を比較する共通指標が必要と考えるようになった。そのために考えられたのが、「時間当り採算」である。部門の全ての売上(生産高)から労務費を除く全費用を差し引き、総労働時間で割る。つまり1時間当たりの付加価値を測る。 この「時間当り」を指標とすることで、両生産部門の業績を公平に測ることが可能となった。「時間当り採算」が制度として取り入れられるとともに、それを共通指標として活動する小集団組織の明確化が図られた。「アメーバ経営」の誕生である。 組織が肥大化すれば、ムダが分かりにくくなっていくとともに、一人一人が能力を発揮することが難しくなる。大組織にありがちな弊害を取り除くために、組織全体をアメーバと呼ばれる小組織に分割し、各組織があたかも一つの中小企業のように、独立採算で経営活動に当たる。 ■ この「アメーバ経営」では、各アメーバに社内間の売買、物品の仕入れ、人の管理など経営全般が任され、アメーバリーダーに経営者のごとき活動を促す。 例えば、望む数字に満たなければ、生産部門のリーダーであっても、客先に足を運び、受注拡大に努める。また将来の事業発展のため、身の丈を超えた設備投資を構想し、その実現に向け最大限の努力を払う。そもそも生産部門のリーダーが、生産数量のみならず、部門採算を意識して活動すること自体、メーカーでは希有なことであろう。 「アメーバ経営」を担うリーダーとは、まさに稲盛が請い願った共同経営者であった。「アメーバ経営」が、社員「一人一人が経営者」になるシステムと言われるゆえんである。 また、「アメーバ経営」は、その名のごとく増殖を前提としている。受注・生産拡大に伴い、アメーバ組織が大きくなれば分割され、それぞれの組織が独自に発展を遂げていく。そのようにして、増殖を繰り返す組織のそれぞれに、経営者意識を持ったリーダーが育成されていく。そのような活力ある組織の集合体である企業が成長発展していかないはずがない。